東海自然歩道 岐阜の道.


養老の滝→養老神社→元正天皇行幸跡→多芸七坊千体仏→白鳥神社→国道1号線→松尾山→不破関跡→関ヶ原

養老の滝を見て、ひたすら養老山地の山麓を行くコースである。多芸七坊の千体仏はすばらしかった。
松尾山から見下ろす関ヶ原は、兵どもの夢の跡といった感じであった。
松尾山から関ヶ原を展望

 養老の滝かた多芸七坊へ
養老の滝


養老神社


菊水霊泉


荒れた沢を渡る


多芸七坊の千体仏

BACK 川原越えから養老


2004年115

今日が東海自然歩道歩きの最終日になる。できるだけ早く関ケ原に着いて、古戦場巡りをしたいと思っている。
養老公園のキャンプ場を出発したのは720分であった。
まず、養老の滝を見に行く。川の流れに沿って上って行のだが、けっこうきつい傾斜である。石段を登って滝の前に着いた。
日本三名滝と言われ、高さ32m、幅4m、真っ直ぐに落ちる堂々とした滝である。滝の展望所には不動明王の石像があって、「不動乃滝」と刻まれた石標があった。養老の滝は正式には不動の滝というのだ。
滝の前で写真を撮って、自然歩道の分岐に引き返す。分岐点のすぐ傍に神社があったので立ち寄ると、それが養老神社で、境内にはこんこんと泉が湧き出ている。この泉が「菊水霊泉」で、養老の滝伝説を生んだ名水なのだ。水量は豊富である。この水を汲んで、今日の飲料水にすることにした。
ここから自然歩道を歩いて行くと、すぐに「元正天皇行幸跡」があった。「万病を癒す薬の水」という報告を受けて、「養老の滝」と名付けたのがこの天皇である。天皇は本当にこの地にやって来たらしい。元正天皇の万葉歌碑もあった
 ほととぎす なほも鳴かなむ もとつ人
  かけつつもとな 吾を音し泣くも


行幸跡から集落の中を行き、正慶寺の前を過ぎると自然歩道は山に向かって登って行く。

昨日から養老山地の麓を北上しているのだが、本当にこのコースは嫌になる。まるで嫌がらせのように遠回りさせられ、しかもほとんど無駄ではないかと思うアップダウンを繰り返させる。山に向かって登って行って、そしてそれを下っての繰り返しなのだ。なんか勘弁してほしいと叫びたくなるようなコースである。
山側に登って、荒れた沢を渡ってそしてまた麓に向かって下る。
平坦になって、林の中を行くと神明神社の前に着いた。ここから少しだけ行ったところに「千躰地蔵」がある。今日のコースの中で、私がもっとも楽しみにしていたところである。
このあたりは「多芸七坊」といって、多くの寺院の伽藍があったところなのだ。千躰地蔵は柏尾寺の跡にあって、この辺一帯の廃寺跡から発掘された石仏を集めたものなのだ。多くの石仏によって円錐形の山ができている。その石仏の一つ一つがけっこうすばらしい。この石仏の山は二つあるのだ。
写真をたくさん撮ってしまった。



 松尾山登山道へ
竜泉寺跡


白鳥神社の霊池


ここから小さな尾根を越える


橋を渡った後は桜並木の土手を行く


手前の平井集落のお寺前


平井の集落

石仏群を後にして、再び自然歩道を行く。
相変わらずの山襞に沿ったアップダウンの連続、道も荒れていて体力をものすごく消耗させられる。
ようやく白鳥神社に着いた…と思ったら、これは「上方桜井神社」であった。私が目指している名水「桜の井」があるのは桜井白鳥神社なのだ。
上方白鳥神社は立ち寄ることなく通過して、桜井白鳥神社に着いたのは10時45分、休憩用のベンチがあったので、休憩することにした。

この神社の境内には桜の香りがするという名水「桜の井」がある。この水を汲んで飲んだ。うまかった。
神社境内には霊池もある。大干魃のときはこの池の水を汲み干して雨乞いをすれば、必ず三日以内に雨が降るという。すごい霊験ではないか。
神社の名前に「白鳥」が使われている。記紀によると、ヤマトタケルは伊吹山で亡くなるのだが、そのあと白鳥になって飛び去ったという。そのことから白鳥はヤマトタケルを表すのである。この神社もやはりヤマトタケルを奉っているのだ。
この神社を出発したのは11時である。
ここからは再びアップダウンを繰り返しながら山麓を歩き、沢田という集落から本格的に山に入って尾根を越す。この尾根を越して平坦な道にでると、ようやく養老山地の山麓歩きから開放される。
大きな川が流れていて、その川の向こうには名神高速の高架が見えた。そして、自然歩道はすさまじく車の通行量の多い国道にぶつかる。なんか人里に降りて来たという感じである。
この国道の脇にバス停があったので、待合所の中で休憩した。ちょうど12時になっていた。
これからは、今までのようなひどいアップダウンから開放されるのである。うれしい。
バス停から牧田川にかかる橋、広瀬橋までの間は歩道部分がなくて、通行量の多い車に注意しながら歩かなければいけない。道はそんなに広くないのにトラックやダンプががんがん走ってくる。恐くなってしまう。
橋を渡ったところで、指導標に従って左に曲がり、牧田川の土手に出る。
ここからは川の土手を行くのだ。道の両脇には桜の木がびっしりと並んでいて、春ははさぞやきれいだろうと思う。この土手の道には新しい歌碑がいくつもたっていた。
のんびり歩いて行くと、枚田川に今須川が合流してくる。自然歩道は今須川に沿った道を行くようになった。この区間は道も平坦で、のどかな田園風景を眺める川沿いの道で、本当に心
が休まる道である。
川沿いの道から直角に左に曲がって橋を渡る。ここから山に向かって入って行くのだ。しかしアスファルトの道である。これを延々と歩いて行く。
嫌になった頃に平井の集落に入った。時間は
14時少し前になっていた。自然歩道の指導標は、私のガイドブックと違ったコースを指していた。ガイドでは車道をそのまま歩いて行くのだが、指導標の道は平井の集落に入って、それを抜けて田んぼの中を行く。曲がりくねった車道をショートカットする道なので、こちらを行く。
車道に合流してしばらく行くと再び集落がある。正面にお寺の大きな瓦屋根が見える。実はこの集落も平井というのだ。同じ名の集落が二つ並んでいるのである。
平井の集落に入るとすぐに右に曲がって民家のあいだの細い道を行く。民家を抜けると、山に登って行く林道に出た。これが松尾山登山道である。



 関ヶ原と不破の関
松尾山山頂


松尾山山頂


東名高速をくぐる


関ヶ原の町





不破関資料館、閉まっていた


不破関の跡


兜掛石


西首塚

いよいよ松尾山に向かって登って行くのだ。時間は14時半になっていた。この調子ではとても関ケ原の古戦場巡りをする時間はないようだ。
30分登り続けて、ようやく山頂に着く。山頂の少し手前にはトイレがあった。
松尾山も関ケ原古戦場の一つである。
関ケ原は1600年、徳川家康率いる東軍と石田光成の西軍が天下分けめの決戦を行ったところである。この松尾山には小早川秀秋が陣を敷いた。
この小早川という男は豊臣秀吉の遠縁にあたることから、血縁の少なかった秀吉が、たいした器量もないのに引き立てていたのだ。
その小早川が裏切る。
関ケ原の合戦は前半、ほぼ互角で戦われていたのだが、この裏切りによって均衡は破れ、西軍が破れるのである。私に言わせれば、この小早川というのはとんでもない恩知らずということになる。
…にしても、この関ケ原の合戦における戦国大名の生き残りをかけた駆け引きはすさまじい。これは司馬遼太郎の「関ケ原」を読むとよくわかってしまう。
この関ケ原の合戦ですさまじい戦いをしたのが薩摩である。薩摩は西軍に属していたのだが、負けを知ると壮絶な退却戦を行うのである。
あろうことか、退路を家康本陣のほうに求め、その眼前を切り開いて撤退してゆくのである。この勇猛さが、敗軍でありながら所領を没収されることもなく、明治まで存続することになり、徳川幕府を大政奉還に追い込むのだ。
多くの大名たちは合戦に望んで日和見であった。勝敗が決まって勝ったほうに付こうとしていたのである。だから陣を敷くのも戦場から離れた山の上に敷いたりするのである。
もっともひどいのは長州の毛利である。毛利は西軍の総大将であったにもかかわらず、軍を動かそうしなかったのだ。とんでもないことではないか。
そのため、関ヶ原後、取り潰されることはなかったが、領土を大幅に削り取られてしまう。
その恨みが幕末まで続き、それが明治維新をもたらすことにもなるのだ。
関ケ原というのは、本当にドラマである。
松尾山に小早川の旗印がたくさん立てられいる。いかにも古戦場らしい。
松尾山から下って行く。名神高速の高架をくぐり、続いて東海道新幹線の高架をくぐる。関ケ原というのは本当に、交通の要衝なのだ。
町の中に入って行くと、すぐに福島正則の陣跡という指導標があった。
福島正則も加藤清正と並んで、秀吉の子飼いの大名である。その彼らがどうして徳川についたのかというと、豊臣家の中に派閥争いがあったからなのだ。
石田三成などの官僚派と福島正則などの武将派が厳しく対立していたのだ。石田三成には淀君がついていて、福島正則らは正室のねねがついていたのだ。この対立うまく利用して天下を手にしたのが家康なのだ。
福島正則の陣跡を見てから、不破の関跡を見に行った。駅とは反対の方向にかなり歩かなければいけない。
不破の関資料館はあったのだが、その前にはグランドのような広い空き地があって、関跡らしきものはない。地元の人に聴いてみたら、この前の道を左に少し行ったところに石碑があるという。その前を通ってきたのだが、気がつかなかった。
戻ってみると、土蔵のような白壁の建物があって、その横に閉ざされた武家屋敷風の門がある。この前に関跡の石碑があった。
じゃあ、その関跡はどこにあるかというと、どうもこの門の中のようなのだ。でも、この中には誰も入れないようだ。小径を入って、裏に廻ってみた。庭園があって、そこにいくつかの石碑が立っている。期待した日本三関といわれる不破の関はみごとに期待外れであった。
あとは関ケ原駅に向かって歩いて行く。途中「西首塚」に寄ったりして、JR関ケ原駅に着いたときは薄暗くなっていた。

このあと、電話して名古屋にいる親友と酒を飲むことにした。
この日は彼の家に泊めてもらった。



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