東海自然歩道 岐阜の道.


関が原駅→藤堂・京極陣跡→福島正則陣跡→不破の関跡→常盤御前の墓→大谷吉隆の墓→エコミュージアム関が原→笹尾山(石田三成陣跡)→関が原決戦地→丸山烽火場跡→伊富岐神社→竹中半兵衛陣屋跡→禅憧寺→藤森お休み処

今日歩くコースのハイライトはなんといっても関が原古戦場めぐりである。
関ヶ原の決戦場

 JR関ヶ原駅から不破の関へ

福島正則陣跡


不破の関守跡


関守跡


不破関資料館


不破関資料館前の休憩所

BACK 養老の滝から関が原


2006年33

645分に名古屋のホテルを出た。時刻表は調べていない。名古屋のような大都会であったら、電車の本数は多いはずで、待たされることはないだろうと思ったのだ。
ところが大垣での接続が悪くて、40分ほど待つことになってしまった。
関が原に着いたのは920分。驚いたことに小雪が舞っていた。さすがに関が原、新幹線が冬に遅れるのはこのあたりなのだ。
気を引き締めて第一歩を踏み出した。今日は関が原を一周するのだ。

駅前の周辺には指導標がなくて、家が混みあって細い路地も多い。少し道に迷ってしまった。ともかく方向を磁石で確認して歩き始めた。
国道の裏道を歩いて、藤堂・京極陣跡に着いた。このあたりから指導標があって、ルートが確認できた。
私は今、関が原の南側にいる。関が原の合戦において東軍は東南側に陣を敷き、迎える西軍は西北に陣を構えたのだ。このさらに南には松尾山があって、小早川が山上に陣を敷いたのだ。前回の自然歩道では、松尾山山頂を通ってきたのだが、この山からは関が原を一望できる。もし、この小早川軍が裏切ることなく東軍の後ろから攻撃をしたならば、間違いなく勝利は西軍のものだったのだ。
藤堂・京極の陣跡から少し行くと福島正則の陣跡に着く。小さな神社の境内に大きな杉の木がそびえ立ち、その下に陣跡の石碑が立っている。
関が原の戦いは豊臣家の派閥争いであるといっていい。それに便乗したのが徳川家康である。豊臣家は豊臣秀吉によってのみ存立していた。豊臣秀吉は根っからの戦場の武将であるが、人たらしと言われるほど人心掌握がうまくて、これによって天下を手にするこちができた。
武将としてたたき上げた秀吉であったが、天下を仕置きするようになると、官僚が力を持つようになる。その官僚勢力の筆頭が石田光成である。これに対するのが秀吉とともに幾多の戦を切り抜けてきた武将たちである。この官僚派と武将派の対立が、ついに武力衝突になったのが関が原の戦いなのだ。

さらに、豊臣家では「奥」においても対立があった。秀吉と苦楽を共にしてきた北の政所「ねね(最近はおねともいう)」と、ただ一人の世継ぎ秀頼を生んだ淀君との対立なのだ。北の政所とは武将派が結び、淀君には官僚派がついた。徳川家康は戦陣で勝ち残ってきた生粋の武人ということで、武将派から信頼されていたのである。
そして、私が今いる陣跡、福島正則は朝鮮の役での遺恨から、石田三成をその肉を喰らいたいというほど憎んでいたのだ。だから福島正則は石田三成にたいして激烈な戦いを挑んでゆく。福島正則の陣の真っ正面には、石田三成が陣を敷く笹尾山が聳えている。
こんなことを考えながら歩いていると楽しくてしょうがない。関が原を取り扱った小説は数多くあるのだが、私は司馬遼太郎の「関が原」が最高だと思っている。

福島正則の陣からさらに西に向かうと不破関守跡である。前回の自然歩道を歩いたとき立ち寄ったのだが、そのときは時間が遅かったため、中に入れなかった。今回は開いていた。中は小さな庭園になっていて、いくつかの碑がたっていた。
ここから緩やかに坂を下ると不破関資料館である。この前には東屋のたつ休憩所があった。



 関ヶ原エコミュージアムへ
国道を陸橋を渡る


国道を渡ると中仙道


黒血川


常磐御前の墓

レンガのトンネルを渡る


大谷吉隆の墓


エコミュージアム関が原

不破関資料館から緩やかに下って「藤古川」を渡る。壬申の乱のとき、この川を挟んで東に天武天皇軍、西に弘文天皇軍が陣を敷いて戦ったのだ。
藤古川から緩やかに上り返す。集落の中を歩いて、これを抜けると車がしきりに行き交う国道
21号線に出てしまった。この国道を歩道橋で渡って、山中集落に入る。入口には中仙道の標識がたっていた。
山中は落ち着いた感じの集落でこの中をのんびりと歩いてゆく。途中で右折して「エコミュージアム関が原」に向かうのだが、私は常盤御前の墓に立ち寄ろうと思う。
常盤御前は源義経の母なのだ。昨年の大河ドラマは「義経」だったが、その常盤御前の墓がこんなところにあるというのは不思議である。常盤は源義朝の愛妾で、義朝が平治の乱で平家に破れ討ち死にしたあと、義経たちをつれてこの地に逃れてきたという。だが、ここで賊に殺されたというのだ。ただ、私の記憶では常盤は平家に捕まって、その後、義経等の命乞いのために平清盛の愛妾になったはずである。そして、その後公家の妻になったのに、どうしてここで死んだことになるんだろう。
ともかくその墓を参拝しに行くことにした。
細い道に入ってすぐのところに小さな広場があって、その奥に石塔がいくつか置かれている。これが常盤御前の墓なのだ。常盤御前は都一のすごい美人だったという。清盛はその色香に惑わされて義経の命を助けてしまい、後に平家一門は滅亡の憂き目にあってしまうのだ。美人は怖い。
少し引き返してから左折して、レンガのトンネルでJR東海道線をくぐる。ここからは樹林の中を緩やかに登ってゆく。
困ったことに、道には雪が残っていた。もう
3月だというのに、どうして雪があるんだと思ってしまう。近畿地方は完全にうららかな春になっていると思って仙台から出てきたのに…。嫌な予感がした。(これはまさしく的中して、後に壮絶な雪山越えをすることになる。)
歩道が完全に雪に覆われたところにトイレがあって、そこに大谷吉隆の墓への分岐があった。私はこの大谷吉隆のファンなので、寄って行くことにした。
大谷吉隆(大谷刑部)は石田三成の親友で、敦賀の城主であった。彼は梅毒に犯されて顔が崩れてきていたために、いつもは顔を頭巾でおおっていたという。
大谷は石田三成にこの戦いは止めるように忠告していたのだが、戦端が開かれるになってしまい、やむなく義によって西軍に加担するのだ。
関が原の戦というのは不思議な戦いで、陣構えだけを見ると西軍が圧倒的に有利だったのだ。でも、その西軍の多くが日和見で、徳川にも内通していたのである。そうしたなかで、この大谷は本当の激戦を行って、戦死するのだ。そういう意味で私は大谷が好きなのである。

山の中に分け入って行く。鬱蒼とした樹林の丘の上に大谷刑部の墓はあった。しんと静まりかえっていて、私一人であった。手を合わせて、引き返した。
分岐に戻って、雪を踏んで歩いてゆく。
樹林を抜けると田んぼが広がっていて、そのなかに大きな工場が建っていたりする。
田んぼの中を歩いて「エコミュージアム関が原」に着いた。私の30年前のガイドブックにはこの施設のかわりに「関が原ウォーランド」が書かれているのだが…。
ここは関が原のビジターセンターで、関が原の自然について展示してあるのだ。私は関が原の戦いに関する展示だと思っていたのでがっかり。
ここでのんびり展示を見ていたら、いっかくに図書の棚があって、その本の中に東海自然歩道の本があった。
私は今回の自然歩道歩きにあたって、2万5千分の一の地図を持ってきているのだが、自然歩道のルートは私のカンで赤線を引いてある。心配なので、この本と私の地図とを照合してルート確認をした。この作業にけっこう時間がかかってしまって、1時間くらいここにいてしまった。



 笹尾山から烽火台へ
車道を行く


石田三成の陣跡の笹尾山山頂


笹尾山の展望台


関が原決戦地


3つの池がある


岡山(丸山)烽火場跡

関ヶ原エコミュージアムから外に出ると、驚いたことに、激しく雪が舞っていた。
ビジターセンターの前の広い車道を東に向かって歩いてゆく。5分ほど行くと広い道に出たが、指導標が見当たらない。しかたがないので、自分の地図を頼りに笹尾山に向かうことにする。車道に平行して走る細い道を歩いていたが、やがて車道と合流してしまった。自然歩道のルートから完全に外れてしまったようである。でも車道をこのまま歩いていっても、自然歩道とかならず交わるはずである。

街の中に入ってすぐに右からくる自然歩道の指導標を見つけた。自然歩道は私が歩きてきた道を歩道橋で越えるのであった。
自然歩道は左の路地のような細い道に入ってゆく。その突き当たりは八幡神社があって、ここから山に向かって丸太の階段を登るのであった。
階段を登って頂上につくと、そこには「史跡関が原古戦場石田三成陣地」と刻まれた石柱が立っていた。
ここには展望台もあって、関が原を一望できる。ここに陣を構えただけでも、石田三成は有利な陣を敷いたと思ってしまうのだ。
山から下って行くと、その斜面には陣柵が作られていて、そこに石田三成の旗印「大一大万大吉」の旗がいくつも立てられていた。
下におりると広い駐車場になっている。少し南下してから、指導標にしたがって左折すると「関が原最後決戦地」の石柱のたつところに出る。笹尾山のすぐ下といっていい。

ここで最後の激戦が繰り広げられたのだ。西軍は前半、ほぼ有利に戦いを進めていたのだが、松尾山に陣した小早川の謀反によって敗退することになる。小早川秀秋は秀吉の正室北の政所の兄の五男である。豊臣家の本当の一族なのだ。その彼が豊臣を裏切るとは、石田三成も予想しなかったであろう。この功によって、小早川は岡山50万石の城主になるのだが、関が原の2年後に21歳の若さで亡くなってしまう。その時、跡継ぎがいなかったため、結局、小早川家は取り潰されてしまうのだ。歴史のめぐり合わせとはこんなものである。
伊吹山ドライブウェイに通じる広い道をトンネルでくぐると林の中に入る。ここで道がわからなくなった。関が原一帯にはいろんな遊歩道が張り巡らされていて、指導標が錯綜しているのだ。地図ではこのあたりに3つの池があるはずである。磁石で方向を確認して、少し行くと目標の池があった。池畔を巡って行く。公園になっていて歩道がきれいに整備されているのだが、一部工事中であった。
次は「丸山烽火場」に向かう。これは山の上で、そには休憩所もある。この烽火台は黒田長政と竹中重門の陣跡でもある。黒田長政は黒田如水の子で、関が原では石田三成の重臣、島左近を討ち取っている。関が原後、如水の家督をついで福岡52万石の太守になった。
脱線ばかりして恐縮なのだが、「酒は飲め飲め飲むならば…」の黒田節はこの黒田家の武将、母里太兵衛のエピソードを歌ったものなのだ。福島正則が勧める大杯の酒を飲み干して、正則の自慢の名槍「日本号」をせしめるという話である。
もう一人の竹中門重については、この後に触れることになると思う。
烽火台で関が原古戦場めぐりはおしまいである。
山を下って左折する。



 関ヶ原から藤森へ
垂井町をめざす


伊富岐神社


菩提休憩所


竹中半兵衛陣屋跡


禅憧寺本堂


藤森お休み処にテントを張った

烽火台からは田んぼの中ののどかな道を行く。振り返ると関ヶ原方面は濃い雪雲に覆われていた。
田んぼの道を垂井に向かって歩いてゆく。自然歩道に沿って鉄道が続いている。このあたりはうららかな天気で、関が原の雪がウソのようである。
伊吹の集落に入ると、この山側に大きな神社があった。伊富岐神社である。この神社で少し休憩。今回の行動食はナッツの詰め合わせを持ってきたのだが、これは正解であった。カロリーは十分だし、ザックにいれておいても潰れる心配がない。
神社からは山に沿って歩いて行くが、しだいに山の中に入ってゆく。自然歩道はJR東海道線を切り通しにかかる橋で越える。
この山から下ると再び線路に出会う。踏み切りの手前にできたばかりの休憩所があった。「菩提休憩所」、ここにテントを張ってしまいたくなったが、時間がまだ早いのでもう少し行くことにする。線路に沿ってすこし歩いて、それから小さなトンネルでこの線路を渡った。
すぐに田町の集落に入り広い車道にぶつかる。自然歩道はこのT字路を左に行くのだが、右200mほどのところに竹中半兵衛の陣屋跡がある。関が原で戦った竹中門重は半兵衛の子なのだ。
竹中半兵衛は豊臣秀吉の軍師で、秀吉に仕える前に織田信長に敵対していた岐阜城を、わずか数人で制圧してしまったという逸話をもっている。
日本人(というよりは私個人なのかもしれないが)は軍師が好きである。機略をもって、少数の兵で大軍を討ち破る、話としては爽快なのだ。たとえば、三国志の諸葛孔明とか太平記の楠正成、甲斐武田の山本勘介(実在の人ではないという説もあるが)、真田幸村など、けっこう人気がある。
でも、本当の戦争においてこれは邪道である。戦争は兵力の多い方が勝つのだ。決戦の場に、敵よりも多くの兵をいかに迅速に集めるか、それが勝敗を決める。
織田信長が偉かったのは、桶狭間(最近は田楽狭間というようだ)で奇襲によって今川義元を討ち取ったが、以後、この成功体験を繰り返さなかったことである。それに反して、旧帝国陸軍は日露戦争の成功体験をひきずって、少数をもって敵に勝つことを本分として作戦を組んだ。そして、数の不足を補うのが「大和魂」などという実体のない精神論を振りかざしたのだ。太平洋戦争に負けるはずである。
…とはいえ、私は竹中半兵衛がけっこう好きなのだ。
集落の中を北上してゆくと左に立派なお寺があった。竹中半兵衛の墓がある「禅憧寺」である。本堂の裏が墓地になっていて、その奥に半兵衛の墓があった。ただし、墓石は祠の中で見ることはできない。
ここを過ぎると、道は左折して東に向かうようになる。
あとは今日、どこにテントを張るかである。道標には大滝の表示。地図で確認すると、その先の梅谷のあたりに休憩施設があるようだ。「藤森お休み処」という。
早く休みたい一心で、道標にしたがってひたすら歩く。大石、大滝と集落の中の道を細かに曲がって進んで行く。

ようやく休憩所に着いたのは16時少し前であった。ここには東屋はなくて、藤棚があった。その下に休憩ベンチがあり、ポストのような簡易トイレが立っている。
今日はここにテントを張って、自然歩道歩きの第一夜をすごすことにした。


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