不破関資料館から緩やかに下って「藤古川」を渡る。壬申の乱のとき、この川を挟んで東に天武天皇軍、西に弘文天皇軍が陣を敷いて戦ったのだ。
藤古川から緩やかに上り返す。集落の中を歩いて、これを抜けると車がしきりに行き交う国道21号線に出てしまった。この国道を歩道橋で渡って、山中集落に入る。入口には中仙道の標識がたっていた。
山中は落ち着いた感じの集落でこの中をのんびりと歩いてゆく。途中で右折して「エコミュージアム関が原」に向かうのだが、私は常盤御前の墓に立ち寄ろうと思う。
常盤御前は源義経の母なのだ。昨年の大河ドラマは「義経」だったが、その常盤御前の墓がこんなところにあるというのは不思議である。常盤は源義朝の愛妾で、義朝が平治の乱で平家に破れ討ち死にしたあと、義経たちをつれてこの地に逃れてきたという。だが、ここで賊に殺されたというのだ。ただ、私の記憶では常盤は平家に捕まって、その後、義経等の命乞いのために平清盛の愛妾になったはずである。そして、その後公家の妻になったのに、どうしてここで死んだことになるんだろう。ともかくその墓を参拝しに行くことにした。
細い道に入ってすぐのところに小さな広場があって、その奥に石塔がいくつか置かれている。これが常盤御前の墓なのだ。常盤御前は都一のすごい美人だったという。清盛はその色香に惑わされて義経の命を助けてしまい、後に平家一門は滅亡の憂き目にあってしまうのだ。美人は怖い。
少し引き返してから左折して、レンガのトンネルでJR東海道線をくぐる。ここからは樹林の中を緩やかに登ってゆく。
困ったことに、道には雪が残っていた。もう3月だというのに、どうして雪があるんだと思ってしまう。近畿地方は完全にうららかな春になっていると思って仙台から出てきたのに…。嫌な予感がした。(これはまさしく的中して、後に壮絶な雪山越えをすることになる。)
歩道が完全に雪に覆われたところにトイレがあって、そこに大谷吉隆の墓への分岐があった。私はこの大谷吉隆のファンなので、寄って行くことにした。
大谷吉隆(大谷刑部)は石田三成の親友で、敦賀の城主であった。彼は梅毒に犯されて顔が崩れてきていたために、いつもは顔を頭巾でおおっていたという。
大谷は石田三成にこの戦いは止めるように忠告していたのだが、戦端が開かれるになってしまい、やむなく義によって西軍に加担するのだ。
関が原の戦というのは不思議な戦いで、陣構えだけを見ると西軍が圧倒的に有利だったのだ。でも、その西軍の多くが日和見で、徳川にも内通していたのである。そうしたなかで、この大谷は本当の激戦を行って、戦死するのだ。そういう意味で私は大谷が好きなのである。
山の中に分け入って行く。鬱蒼とした樹林の丘の上に大谷刑部の墓はあった。しんと静まりかえっていて、私一人であった。手を合わせて、引き返した。
分岐に戻って、雪を踏んで歩いてゆく。
樹林を抜けると田んぼが広がっていて、そのなかに大きな工場が建っていたりする。
田んぼの中を歩いて「エコミュージアム関が原」に着いた。私の30年前のガイドブックにはこの施設のかわりに「関が原ウォーランド」が書かれているのだが…。
ここは関が原のビジターセンターで、関が原の自然について展示してあるのだ。私は関が原の戦いに関する展示だと思っていたのでがっかり。
ここでのんびり展示を見ていたら、いっかくに図書の棚があって、その本の中に東海自然歩道の本があった。
私は今回の自然歩道歩きにあたって、2万5千分の一の地図を持ってきているのだが、自然歩道のルートは私のカンで赤線を引いてある。心配なので、この本と私の地図とを照合してルート確認をした。この作業にけっこう時間がかかってしまって、1時間くらいここにいてしまった。
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