奥の細道を往く 
【元禄2年3月27日】(太陽暦5月16日)

千住大橋→矢立初めの碑→千住宿→草加宿→草加松原(矢立橋→百代橋)→越谷→粕壁 【26km】

芭蕉が見送りの人たちと一緒に隅田川を舟で遡って、千住に着いたのは巳の下刻(11時頃)であった。芭蕉はここから歩き始めたのだ。奥の細道には草加に泊まったように書いてあるのだが、曾良日記によると実際は粕壁(春日部)だったらしい。

 千住宿
千住大橋を渡る


千住大橋のレリーフ


千住の商店街を行く


BACK 深川から千住へ


2008年3月18日(火)

神社から国道に戻って進むとすぐに千住大橋である。千住大橋をトラックなどの大型車がどんどん走ってゆき、とても芭蕉の頃を偲ぶすべはない。橋の袂には千住大橋の説明の碑があった。
橋を渡ったとことには小さな広場があって、「おくのほそ道矢立初めの碑」があった。刻まれているのは素盞雄神社の石碑と同じ文である。そして、奥の細道の全行程の大きな看板が立てられていた。
この広場からは堤防を越えて隅田川河畔に降りることができる。そこにも広場があって、堤防のコンクリート壁には奥の細道の文章と与謝野蕪村の芭蕉の絵がかかれていた。芭蕉は深川から船で隅田川をさかのぼって、ここで船を降りたのだ。
ここから芭蕉は歩き始めたのである。私も、気を引き締めなおして出発する。
すぐに国道脇に芭蕉の像が立っているのを見つけた。大きな塀が後ろにあって、そこにはおくの細道と書かれていた。
国道は左にカーブするのだが、私はまっすぐの商店街の道を進む。これが本当の旧日光街道で、芭蕉もこの道を歩いたはずである。この商店街の中には「千住高札場跡」や「一里塚」の碑がある。商店街をひたすら歩いてき、ようやく喧騒さから抜け出すと、昔の宿場町らしきふるい家があったりした。行く手に高い堤防が立ちふさがって、これに上ると荒川の河川敷が広がっていた。1140分になっていた。




 草加宿へ
保木間の町を通過


埼玉県に入った


草加せんべい発祥の地の碑


草加の松原を行く


荒川を千住新橋で渡ったところで、国道4号線から別れて左の道にはいる。保木間の町を抜けてひたすら歩いてゆく。この頃から本当に疲れてきた。足も痛くなった。休憩するときは靴を脱がないと足が痛くてたまらない。まだ初日だというのに前途多難である。
荒川から2時間ほど歩いたところで再び4号線と交差する。そのからすぐの所に小さな神社があった。水神の祠である。このすぐ先で毛長川という小さな川を渡るのだが、この先が埼玉県であった。ようやく東京都から埼玉県に入ったのである。時間は2時になっていた。この調子ではとても芭蕉の一泊目の地、春日部までは行けそうもない。
浅間神社を右にあって、そこにたつ石柱を見たら村社とあった。今は草加市なのだが、昔は村だったということだ。
浅間神社から10分ほど行くと小さな広場があってベンチも置かれていた。ここで休憩することにした。街中を歩いていると休む場所がなくて本当に困るのだ。広場の隅に小さなお堂がたっていて、火あぶり地蔵尊という石柱があった。火にあぶられる目にあった地蔵尊なのだろう。
この先で目立つのは草加せんべいの看板で、草加市なんだという気がしてきた。古い家が残って、いかにも宿場町らしい雰囲気が残る中を歩いてゆく。
道が綾瀬川にぶつかるとそこに火の見櫓のような塔があって、きれいに整備された公園になっていた。石段を下ると芭蕉の像がある。後ろを振り返った像である。
奥の細道には「其日、漸 草加と云う宿にたどり着にけり」とあって、いかにも芭蕉は草加に泊まったようなのだが、随行した曾良の日記では粕壁(春日部)に泊まったとある。でも、ようやく草加に着いたという気持ちはよくわかってしまう。私も3時を過ぎたので心細くなってきているのだ。
ここからはよく整備された遊歩道が続いていて、少し行くと川もないのに石造りの太鼓橋があった。これには矢立橋とかかれていた。この橋を上っていって、頂点から行く手を眺めると松並木がずうっと続いているのだ見えた。これが草加の松原なのだ。
綾瀬川に沿って松並木は続いていて、これを歩いて行く。さっきの矢立橋と同じような太鼓橋が現れた。これは百代橋であった。これは奥の細道の冒頭にある「月日は百代の過客にして…」から名づけたものらしい。橋の下を川が流れてるわけではないのだが、せっかくなのでこの太鼓橋を渡った。そこには松尾芭蕉文学碑があってベンチも置かれていたので休憩することにした。途中のスーパーでラーメンを買ったので、ここでお湯を沸かしてラーメンを作った。うまかった。





 粕壁へ
越谷市に入った


暗くなってしまった


地蔵堂があった


備後一里塚跡


遊歩道を歩いて草加松原の北端に着いたのは17時を少し過ぎた頃、その少し先で東京外環自動車道路の高架をくぐる。それから15分ほど歩いて綾瀬川を渡ると越谷市に入った。薄暗くなってヘッドライトがつき始めた車を眺めながらひたすら歩いて行く。市街地に入る前に車が頻繁に走る大通りから左の旧道に入る。越谷の市街地に入るこはもう完全に暗くなっていたが、その暗い中で宿場町らしいふるい家を見ることができた。写真を撮ってみたが暗すぎてダメだった。
休憩場所はないかと思って歩いていたら北越谷駅前に出た。この駅前広場のバスターミナルのベンチで休憩できた。本当に疲れ果てている。芭蕉の一泊目は春日部だったのだが、ここからはまだ10kmもあるのだ。今、時間は1845分になっているので、春日部に着くのは21時くらいになりそうだ。芭蕉ってどんなに健脚だったんだと思ってしまう。
夜の道を歩き続けて国道4号線の高架をくぐったのは1940分頃。この先の道も国道4号線で、4号線が2本走っているのだ。
途中マクドを見つけて30分ほど休憩した。
暗い国道を歩き続けて備後一里塚を通過したのは2140分になっていた。この頃になると、どこでもいいからテントを張ってしまいたくなっている。
足を引きずるようにして春日部市内に入ったのは22時半頃になっていた。国道をまっすぐに行くと川にぶつかった。これは古利根川である。この河川敷にテントを張ろうと思ったら、河川敷がほとんどない。困り果てながら歩いて行くと、川にかかる橋が公園のようになっていて、そこには東屋もあった。さっそくこの東屋の下にテントを張った。街の中でもあるし、人もたくさん通るかもしれないけど、そんなことにかまっている余裕はない。
テントを張って中に納まったのは23時半頃であった。
第一日目からすごい距離を歩かされてメチャクチャに疲れたので、シュラフに入ったらすぐに眠ってしまった。


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