奥の細道をゆく 
【元禄2年3月27日】(太陽暦5月17日)

粕壁→小渕一里塚→杉戸宿→日光御成街道→幸手宿→栗橋宿→栗橋の関址→古河宿→中田の松原→間々田宿 【38km】

奥の細道には粕壁から間々田宿までのことを何も書いていない。栗橋から古河へは利根川を渡し船で渡ったのだが、私はりっぱな橋で渡った。



 粕壁宿
古利根公園橋の彫刻


公園のオブジェ


古利根川を渡る


BACK 千住から粕壁へ


2007319日(水)

疲れ果てていたので、ぐっすり眠ってしまった。目が覚めたのは6時半頃であった。シュラフはちょうどいい暖かさで、つい寝過ごしてしまったみたいだ。起きた時に足を調べたら、両足にマメができていた。針で水泡をつぶしたがすごく痛い。こんな調子で歩けるんだろうかと思ってしまう。
街の真ん中にある公園橋なので散歩に来る人も多い。あわててテントをたたんだ。
テントをたたんでから公園を見回すといくつもの彫刻がたっているので、これを見るために公園を一周することにした。
橋にたつ2体の彫像はどことなく北海道釧路の幣舞橋にあったものに似ている。(帰ってから確認したら違っていた。彫像を見て回ったら、「古利根公園橋」というプレートを見つけた。この川は古利根川だったのだ。
ここからまっすぐ北に向かうべきなのだが、昨日は夜遅く春日部に着いたので、宿場町のたたずまいを見ていないので、街の中心に引き返した。
私が見たいと思っていた追分の道標はすぐに見つけることができた。けっこう大きなもので、天保五年のものであった。この道標の後ろには古い商家があって、ごていねいに昔の赤いポストまでたっていた。



 杉戸宿
小渕一里塚跡


すぎーと36


杉戸宿散策路の小広場


古い家並みを行く


これを見て春日部の宿を後にする。川を渡ってすぐに左の細い道に入る。すぐに小渕一里塚跡があった。昨夜、真っ暗な中で備後一里塚を見たのだが、あそこから一里ということだ。標識の隣には古い庚申塚の石碑があった。
すぐに国道4号線に出る。あとは車が激しく往来する国道をひたすら歩くだけである。
道の右を歩いて行くと、左に立派な赤い仁王門を見つけた。「春日部市指定文化財 小渕山観音院仁王門」という標識がたっているので近くまで行ってみた。仁王像はけっこう損傷が激しく手の先もなくなっている、痛ましい感じであった。
春日部市から杉戸町に入ったところには「すぎーと36」という道の駅のような駐車スペースがあった。
国道を40分ほど歩くと左に東武動物公園に向かう道が分かれる。これが旧街道なのでこの道を行くが、すぐ右には国道4号線が平行して続いている。
街中の道を行くと、東屋やベンチが置かれた公園があって、そこに「日光街道杉戸宿みなみがわ散策道」案内図があった。閑静な住宅の中に遊歩道がつくられているのだ。車道を歩くよりはこの散策道を歩いたほうが快適である。
お年寄りが散歩している道で、これをのんびり歩いて行くと、中間点くらいに東屋があったので、ここで休憩することにした。時間は95分になっていた。
今朝、沸かしてポッドに入れてきたお湯でコーヒーを作って、ティタイム。足はとても痛い。反省しているのは縦走登山の装備をザックに入れてきたことである。余計な荷物が多すぎるのだ。今回の旅は四国遍路と同じである。遍路の経験でアスファルト道を歩くときはいかに荷物を荷物を減らすかということを思い知らされたはずなのに、何の思慮もなく来てしまった。
散策路は杉戸教会の前で旧街道と合流する。
さすがに杉戸宿の面影は残っていて、古い家を所々で見ることができた。



 幸手宿
宿場町のたたずまいが残る




再び国道4号線に出て1時間ほど行くと、国道は右にカーブする。旧日光街道は直進して、2kmほどでT字路にぶつかる。このぶつかった道は「日光御成街道」である。左折して幸手市街に入って行く。幸手宿場町に入ると、歩道には「ふるさとのみち日光街道」の標識を頻繁に見るようになった。宿場町の面影を残す古い家を見ながら歩いて行くと、聖福寺があった。寺への参道入り口には芭蕉と曾良の句碑があった。

 幸手を行ば栗橋の関 芭蕉
 松杉をはさみ揃ゆる寺の門 曾良


でも、この句が詠まれたのは、芭蕉が奥の細道を終えた4年後のものである。
お寺の本堂に向かったが、参道の真正面にあるのが勅使門のようである。でも、このお寺は幼稚園の終了式の真っ最中で、境内には園児や父兄があふれていて、見学することは止めにした。
聖福寺のところで道はクランク型に曲がる。枡形なのだろうかと思うが、その角には一里塚跡があった。



 栗橋
中川を渡る


こんな酒屋さんがあった


江戸から14番目の一里塚


観音堂調整池


枡形から北上すると1kmほどで国道に合流して、中川を渡った。これで幸手から栗橋に入ったのだ。橋を渡ったところで国道から離れて右の細い道に入る。こっちが旧街道なのである。
田畑の間に住宅が点在する道を行くと日光街道の標石があった。「右つくば道」と刻まれていて、けっこう大きなものである。石柱の上には仏像が彫られたいて、安永4年のものだという。
静かな田舎道を歩いて行くと、古いお店があったり神社があったり、梅の花が咲いていたりで、これはこれで楽しいのだ。
4号線のすぐ下を歩いて行くと壊れかけたお堂があって、そこには一里塚の説明板がたてられていた。江戸から14番目の一里塚なのだそうだ。
時間は13時を過ぎていて、どこか休むとこらがないかと思いながら行くと、一里塚から少し行ったところで4号線をくぐるトンネルがあって、その向こうにベンチを見つけた。
ベンチに座って眺めるとダム湖が広がっていた。権現堂調整池(御幸湖)というのだそうだ。ここから50分ほど歩き、西から来る国道125号線をトンネルでくぐると栗橋の宿場に入る。私は「疱瘡地蔵」を目的に歩いてきたのだが、いつのまにか通り過ぎてしまった。
宿場らしい古い家を見ながら歩い行くと、利根川の高い堤が見えてくる。その少し手前で右に入ると、そこには栗橋の関の碑があった。栗橋の関所は「房川渡中田・関所」と呼ばれて、東海道の箱根、中仙道の碓井と並んで重要の関所だったのだ。

この石碑から土手の急斜面を登ると国道4号線である。ところが困ったことに上ったところにはガードレールがあって、そこに歩道部分はなかった。歩道は道を渡った向こう側にあったが、横断歩道がない。これでは利根川を渡ることができないではないか。しかたがないので、車の来ないのをみはからって、強引に横断した。ちょっと怖かった。
目の前には利根川が悠々と流れている。この川を渡ると、いよいよ栃木県である。



 古河
橋の上で古河市に入る


光了寺


校庭に一里塚があった


古河城下本陣址


文久元年の道しるべ石


利根川橋は長さが600mほどもあって、左側にだけ歩道部分がある。橋の欄干には埼玉県の鳥シラコバトの透かし彫りがあって、橋の真ん中で栃木県に入ると栃木県の鳥ヒバリになった。
橋を渡ると左に曲がって、国道から離れる。これが古河市街を通る旧街道なのだ。
利根川の土手に沿って行くと、土手に上って行く階段があったので、これに腰を下ろして休憩することにした。時間は15時少し前になっていた。ここで、お湯を沸かしてラーメンをつくって食べた。
お腹も膨れたので、気を取り直して歩いて行く。すぐに道の左に光了寺があった。弘法大師が創立したというのだが、親鸞が越後から常陸に移ってきたときに、時の住職が弟子になってしまって浄土真宗の寺になってしまったのだそうだ。境内に入ってみると、大きなヒバの木がそびえていた。
歩いて行くと寺院がけっこう多くて、このあたりは寺町なのかと思ってしまった。
道には小さな松の木が植えられているのだが、中田の松原という案内板を見つけた。ここから古河までの約1里は松並木であったらしいのだ。道に植えられている松はそれを復旧させるためのものらしい。
人家がまばらになって、ひたすら歩いて行く。古河の手前には一里塚があるはずなので、注意しながら歩いて行くと高校の構内に標識を見つけた。柵越しにしか見ることはできなかったが、小高く盛り上がった塚になっていて、その上には木が植わって一里塚らしさを残していた。
ここから1kmほど行くと字路にでて、ここからは広い歩道のある街中の道になった。歩道には行灯のようなものがたっていて、日光道と書かれた標識もおかれていた。
古河の市街を歩いて行くと「史跡 古河城御茶屋口門」という石柱がたっていた。御茶屋というのは日光参拝の将軍がここで休憩するために設けられたものらしいのだが。この石柱の横にはスタンプのポストが置かれていた。さっきの中田の松原にもあったものである。私はこんなスタンプを集めるのが好きなのだ。
古河の繁華街の中に入って行き、古河駅との交差点を過ぎたところに本陣跡の石柱があった。今も昔もこのあたりが古河宿の中心地なのだ。
この先で左折する。広い道はまっすぐ続いているのだが、なぜか日光街道はここでクランク型に曲がるのだ。これも昔の枡形なのだろうか。
左折したところには古い道標がたっていた。日光道と筑波道の追分にあったもので、文久元年(1861年)のものである。石柱の上には祠のようなものが作られていて、これは常夜灯でもあったらしい。ここにもスタンプポストがあった。
すぐに右折すると「よこまち柳通り」で、遊歩道になっていた。ベンチがあったので、自販機でジュースを買って休憩した。時間は17時半になっていて、もう暗くなろうとしていた。奥の細道二泊目の間々田までは古河から8.5kmほどである。この調子だと間々田に着くのは21時頃になってしまいそうだ。芭蕉ってどうしてそんなに元気なんだと思ってしまう。



 間々田
古いしるべ石があった


観音堂


小山市に入った


史跡公園にテントを張った


古河市街地から抜け出て、国道4号線に合したときは、もう真っ暗になっていた。すぐに野木宿に入ったが、目標にして本陣跡の標識は暗くて見つけることはできなかった。
流れる赤いテールランプを眺めながら国道を行くと、雨が降り出した。足を引きずるようにして歩いているのに、雨まで降り出すなんて最悪である。
1845分に目標にしていた観音堂を通過した。この前にテントを張ってしまおうかとも思ったが、やはり芭蕉と同じように間々田に泊まりたいので歩き続ける。
野木駅への道の交差点にガソリンスタンドがあって、そこにはマクドナルドが併設されたいたので、ここで休憩することにした。あめの中では休むところに苦労するのだ。
マクドに入っている間に雨は上がってくれないかと思っていたが、益々激しくなっていた。
30分ほど歩くと小山市に入った。20時半になっている。間々田までは2.5kmほどなので、到着は21時を過ぎることになりそうだ。
傘をさして黙々と歩き、間々田駅との交差点で左折して博物館に向かった。私は小山市に4年住んだことがあって、このあたりの土地勘があるのだ。博物館の横には「史跡 乙女不動原瓦窯跡」が公園として整備されていて、そこには東屋があったような気がするので、そこにテントを張るつもりなのだ。
博物館への道はけっこう複雑で迷ってしまったが、なんとか公園に着くことができた。ところが東屋はなかった。史跡の中の木の下にテントを張ってしまおうかと思ったが、それはまずいだろうと思いなおして、窯跡を展望するベンチのあるところにテントをはった。
雨のなかテントを張って、中にもぐりこんだのは22時少し前であった。
途中のコンビニで買ったワンカップを飲んで、すぐに眠ってしまった。


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