奥の細道を往く 
【元禄2年4月22日】(太陽暦6月9日)
矢吹→鏡石→須賀川  【11km】

【元禄2年4月23〜28日滞在】
須賀川市役所→芭蕉記念館→長松院→神炊館神社→翠ヶ丘公園→可伸庵跡→軒の栗小公園

芭蕉は須賀川の相良等躬宅に1週間も滞在して句会を開いたり、史跡をめぐったりしているのだ。等躬は須賀川宿の駅長だった人で、芭蕉には先輩にあたる俳諧人である。



 矢吹から須賀川一里塚へ
国道4号線を行く


鏡石に入った


久米石


また真っ暗になってしまった

BACK 白河関から矢吹へ


2008年4月4日

芭蕉は矢吹に泊まっているのだが、私は須賀川まで行ってしまうことにした。
でも、矢吹から須賀川までは
11kmほどなので到着は20時近くなるかもしれない。矢吹でテントを張るべきだったと少し悔やんだ。 矢吹の町を抜けて国道に入るとそこには東京から205kmの標識があった。やっと200kmを越えたのかと思った。
このすぐ先で鏡石の境界を越える。時間は17時を過ぎていた。
国道から久米石集落に入ったのは
17時半、まだ須賀川は遠い。
久米石を過ぎてから国道を横切って笠石の集落に入る頃にはだいぶ薄暗くなってきた。矢吹から1時間ほどしか歩いていないのに疲れる。集落の中を歩いて行くとジャスコの看板があった。ここで買出しをして、少し休むことにした。ジャスコ食堂街のテーブルに座って足底をさする。なんかうっ血してるのではないかと思ってしまう。
ジャスコから出たら外はもう真っ暗であった。暗い中、鏡石の街中を歩いて行く。暗くなってしまうと何も見えないので、黙々と歩くだけである。1950分に国道と合流した。このあたりは4車線の幹線道路が交わっていて、私が歩く道がよくわからない。でも、地図を見るとこのあたりに一里塚があるはずである。暗い中、道端に腰掛けて休憩していたら工事の人と思われるヘルメットの人が来た。一里塚ってどこですかと聞いたら、すぐ目の前にあるのを教えてくれた。暗くて判らなかったのだ。
一里塚は土手の上にあって、これに登ってみたら、狭いがテントを張るだけのスペースがあった。芭蕉が泊まった須賀川の街へはまだ2kmほどあるのだが、街中でテントを張ることはできないので、ここに泊まってしまうことにした。
テントに落ち着いたのは20時半ころである。狭いテントの中だが、ジャスコで買出ししてきたので食料は豊かなのだ。



 須賀川市街へ
一里塚にテントを張った


須賀川市役所




2008
45

6時に起きた。外に出てみると、一里塚の横は畑で、その向こうに車が行き交う国道4号線がある。昨日はけっこう車の音がうるさかったのだ。
土手の下は私が昨日歩いてきた道で、その向こうにも一里塚があった。道の両側にちゃんと一里塚が残っているのだ。この須賀川の一里塚は日本橋から59番目のものである。
テントを撤収して歩き始めたのは6時半であった。国道118号線を渡って、須賀川市街に向かって歩いて行く。一里塚の前の道を真っ直ぐに行くので、これが旧街道だと思っていたのだが、間違っていた。国道118号線を右に200mほど行ってから北に向かわなければいけなかったのだ。途中で道が工事で途切れてしまったので、右折してJRの線路を渡り、それから北に向かった。地図をにらみながら歩いて、無事、須賀川市役所に着くことができた。
市役所前広場の一郭には芭蕉記念館があるのだが、まだ時間は
7時を過ぎたばかりなので、当然中に入ることはできない。芭蕉記念館は普通の民家のような建物で、入口には木戸門があって、行灯に芭蕉の「風流の初やおくの田植うた」の句が書かれていた。
市役所の前には土蔵の古い家があった。



 須賀川市街を散策
妙林寺


長松院


神炊館神社


芭蕉は須賀川で相楽伊左衛門(俳号は等躬)の家に
7泊している。等躬は須賀川の宿役人でかなりの名士であったらしい。逗留している間は歌仙を興行したり、付近の名所を尋ねているのだ。私も芭蕉の訪れた先をめぐることにする。
まず、芭蕉が世話になった等躬の墓のある長松院に行ってみる。街中の路地のような細い道を歩いて行くと寺院があったので、これかと思ったら妙林寺であった。この少し先に長松院があった。
長松院というのはずいぶん立派な大きな寺で、広い境内の奥に本堂がたっている。さて、ここには芭蕉の句碑はないのかと探したが、あるのは等躬の句碑であった。


  あの辺は つく羽山哉 炭けふり

本堂の左を通って裏の広場に出ると、その一郭に墓地がある。墓地広場の真ん中にはピラミッドのような塔が高くそびえていた。これはいったいナンナノダと思ってしまう。
墓地の中には相楽等躬の墓という標識がたっていて、すぐにわかった。墓に手を合わせて境内を出た。
長松院の北には神炊館(じんすいかん)神社がある。曾良日記には「十念寺・諏訪明神へ参詣」と書かれていて、この諏訪神社が神炊館神社のことである。慶長3年に二階堂氏が神炊館神社に諏訪社も併せて社殿造営したのだ。大きな石灯篭が並ぶ参道を行くと、左に芭蕉の記念碑がたっている。
石碑には二枚のパネルがあって、一つは芭蕉の肖像と芭蕉が諏訪明神に奉納したという

  らみせて 涼しき瀧の 心哉

という句で、もう一枚のパネルには二十八日の曾良日記が記されている。
本殿の左には二つの社が祀られていた。一つは宮城県岩沼市にある竹駒神社で、稲荷社のためか赤い社であった。



 翠ヶ丘公園へ
十念寺本堂


博物館


博物館の句碑


十念寺に向かった。須賀川の街の中を歩いて行くと、宿場を思わせるけっこう古い家が目に付く。

十念寺というお寺に、なんで芭蕉がわざわざ参拝したのかわからないのだが、文禄元年に開山された浄土宗のお寺である。このお寺には、安政二年に須賀川出身の女流俳人 市原多代女によってたてられた芭蕉の句碑があるのだ。

  風流の初や奥の田植うた

境内は閑散としていて、参拝しているのは私一人であった。
次は可伸庵に行くつもりで町の中を歩いていったが、歴史民俗資料・博物館の指導標があった。時間はまだ8時を過ぎたばかりで中に入ることはできないのだが、この博物館の前庭にも芭蕉の句碑があるので行って見た。
博物館の周辺は公園としてきれいに整備されていて、東屋やベンチがおかれている。ここにテントを張ってもよかったかと思った。ガイドブックによるとここは翠ヶ丘公園で、桜や紅葉の名所なのだ。
博物館前の奥まったところに芭蕉の句碑があった。

  五月雨耳 飛泉婦梨 う川む 水可佐哉
 (さみだれに
たきふり うつむ みずかさかな)

この句は奥の細道には掲載されていないのだが、曾良日記によると乙字ヶ滝で詠んだものである。でも、どうして万葉仮名のような漢字だらけの句になっているのかわからない。



 軒の栗へ
NTT正門に案内があった


可伸庵跡の東屋


軒の栗庭園


街に戻って、
NTTのアンテナを目指して歩いて行く。ガイドブックによると可伸庵はNTTの構内にあるというのだ。NTTの中に入ると広い駐車場があって、どんどん奥に入って行くと裏門に着いてしまった。その外に可伸庵が見えた。困ったことに門は閉まっていて、可伸庵に行くことはできない。仕方がないので表門に引き返して大きく遠回りすることになった。大通りから可伸庵に入る角には小さな公園があった。これは後でゆっくり見ることにして可伸庵に急ぐ。
芭蕉は須賀川で一週間も相楽等躬宅に滞在したのだが、屋敷の近く、栗の木の下に庵を結んでいたのが可伸という僧なのだ。この栗の木の下にあった庵が可伸庵である。
可伸庵跡は今は小さなお庭になっていて、その狭い中に東屋や句碑がたっている。
芭蕉はこの可伸が気に入ったみたいで、奥の細道のなかで栗の木のことを述べて

  世の人の 見付けぬ花や 軒の栗

という句を載せている。
いま、ここに立つ句碑は、文政八年に須賀川の俳人によってたてられたものである。
大通りに戻って、さっきみた小さな公園に行った。ベンチがあるのでここで少し休憩する。もう時間は840分になっていた。
案内板によるとここは「軒の栗庭園」というのだ。稚拙なつくりの芭蕉や等躬の像がおかれていた。
これで須賀川の観光を終えて、乙字ヶ滝をめざすことにする。


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