奥の細道を往く 
【元禄2年4月21日】(太陽暦6月8日)

白河の関(古関蹟碑→白河神社→古歌碑→芭蕉碑→白河関の森公園)→旗宿→庄司戻しの桜→関山(下馬碑→満願寺)→白河市街(宗祇戻しの碑)→踏瀬の松並木→矢吹  【25km】

芭蕉は旗宿を8時頃に出発して、25kmの道程を歩き、矢吹宿に着いたのは16時頃だったらしい。この途中で関山を越えているのだが、これは本当に登山であった。



 白河の関
東屋にテントを張った


白河神社が白河関蹟


白河神社参道


白河神社


関の森公園入口の芭蕉・曾良の像


銅像の台座の句碑


遊歩道を行く


遊歩道に白い花が咲いていた

BACK 湯本から白河関へ

200844

芭蕉はこの日、白河の関から矢吹までの約25kmを歩いて宿泊している。その翌日は11kmの歩行で須賀川泊りである。二日あわせて36kmというのは、これまでに比べたらかなり短い。私はこの区間を一日で歩いてしまうことにした。(無謀だった)
白河の関の東屋にテントを張ったのだが、けっこう快適であった。東屋の壁が高いので風を防いでくれるし、外からも見えない。でも、6時くらいになったら散歩をする人なのだろうか、足音が聞こえるようになった。
テントを撤収して、ザックはここに置いたままで白河の関の散策に出かけた。
ここの白河の関というのは平安時代の東山道にあったもので、その後主要街道は昨日通った境の明神を通る道になっため忘れ去られてしまったのだ。白河藩主の松平定信が調査・検証を行って、この地が旧白河の関であると断定し「古関蹟の碑」をたてている。現代になってからは昭和35年から5年間にわたって発掘調査がされて、ようやくその全貌が明らかになったのだ。
改めて正面にまわって、参道を進むと石の鳥居が立ち、両脇には狛犬も置かれている。そこからは杉の巨木の参道が続いて、いかにも歴史を感じさせる。
鳥居の右には松平定信がたてた「古関蹟」の碑があった。
そのそばには「幌掛の楓」がある。源義家が前九年の役に出陣したとき、この楓に幌をかけて休憩したというのだが、今ある楓はとてもそんな古いものには見えない。何代目かのものだろうと思うが、一時は関所の場所も定かでなくなったのだから、とても真実とは思えない。
参道の石段を上ってゆくと、途中に「矢立の松」があった。これは源義経が平泉から平家追討に向かう途中、この松に戦勝祈願の矢立を行ったというのだ。今はわずかに根株が残るだけだというのだが、私はそれすら発見できなかった。
石段を上りきって白河神社の本殿の前に出る。林の中にひっそりとたつ社である。この境内には「古歌碑」がたっている。白河の関を題材にした平安時代の著名な和歌で、

  便りあらば いかで都へ告げやらむ
    今日白河の 関は越えぬと (平兼盛)

  都をば 霞とともに立ちしかど
    秋風ぞふく
白河の関 (能因法師)

  秋風に 草木の露をはらわせて
    君が越ゆれば 関守もなし (梶原景季)


の三句が刻まれていた。
神社の右奥には発掘された土塁跡などが残っていた。
林の中を下って行くと芭蕉碑がひっそりとたっていて、その前にはかすかな踏み跡があるだけだった。奥の細道の白河の関の章が刻まれている。芭蕉は白河の関で句を残していなくて、登載されているのは曾良の句だけなのだ。
林の中の斜面を下りきると、遊歩道に出る。これは白河の関入口から「関の森公園」に続く遊歩道である。せっかくなので、この公園に寄って行くことにした。
遊歩道を行くと旗立ての桜(源義経が戦勝祈願に源氏の旗をたてたという)があって、そのすぐ先には従二位の杉(鎌倉時代前期の歌人、従二位藤原家隆が手植えしたという)があった。白河の関にある木にはすべて伝説があるのかと思ってしまう。

白河の関の杜を出て、整備された公園に着く。広場の真ん中には芭蕉と曾良の銅像がたっていた。それを載せた自然石には

  風流の 初めやおくの 田植えうた (芭蕉)

  卯の花を かざしに関の 晴れ着かな (曾良)


の二つの句が刻まれていた。
芭蕉の句は、須賀川で宿泊した等窮に白河の関のことを訊かれて詠んだ句である。
この公園には古い民家や、江戸時代の関所の復元があるのだが、朝早いのでその入口は閉じられていた。無理して入ってもいいのだが、それは止めにして引き返した。
白河の関はほぼ円形の丘になっていて、遊歩道がその縁に沿って円を描いている。私は関の入口から時計の反対周りに歩いてきたのでその続きを歩いて入口に戻ることにした。林の中の遊歩道を行くと、カタクリの花が咲いているのを見つけた。ここにはカタクリの群落が見られるらしいのだが、花はそんなに多くはなかった。時期がまだ早いのか遅いのか。それに朝早いためか、花はまだ開いていなかった。白河の関の杜はさすがに巨木が多くて、森厳な気持ちにさせられた。東屋に戻ったのは710分であった。




 白河関から関山へ
旗宿に入る


庄司戻しの桜


関山の入口


関山山頂の下馬碑



関山山頂からの眺め


白河の関から県道を北に向かって歩くと集落に入る。バス停には旗宿上とかかれていた。芭蕉が泊まったのは旗宿というところだから、この宿場で泊まったのだろうか。

集落を抜けると、左に大きな桜の木がある。これが「庄司戻しの桜」であった。
この桜の木には源義経の忠臣であった佐藤継信・忠信の兄弟にまつわる伝説があるのだ。平泉から鎌倉に馳せつける義経に息子の佐藤継信・忠信を従わせた信夫の庄司佐藤基治は、「二人が忠臣であったら、この桜の杖は根付くだろう」と携えていた桜の杖をこの地に突き刺したのだ。佐藤継信・忠信は義経の身代わりとなって二人とも討ち死にしてしまうのだが、基治のいうとおりに、杖は立派な桜の木になったというわけである。
芭蕉は義経の大ファンだったようで、忠臣であった佐藤継信・忠信にもかなり心を寄せていたらしい。この先、義経や佐藤兄弟にかかわる史跡を熱心に訪れることになる。

庄司戻しの桜のすぐ先に字路があって、ここを右に行く。左の道は白河市へ近道なのだが、芭蕉は「関山」という山を越えているのだ。二万五千分の一の地図には登山道が書かれていないのだが、ガイドブックを読むと、ふもとの神社からまっすぐに山に登って行く道があるらしい。どんな道なのか不安もあるがともかく行ってみることにする。
字路から10分ほど行くと「関山入口」という指導標がたっていた。入口はわかりにくいとガイドブックに書いてあったのだが、これなら道も整備されていそうである。
この入口からすぐに社川を渡って、小さな集落に入って行く。行く手に山が迫ってくる。地図によると標高は518mなのでたいしたことはないのだが、下から見上げるといかにも高く感じてしまう。
集落から山間の小さな峠を越えて内松の集落に入る。細かな道が錯綜しているのだが、指導標のおかげで迷うことなく神社の前に着くことができた。鳥居の前の石柱には「村社稲荷神社」と刻まれていた。登山道はこの神社の後ろにあるはずなので、杉林の中の石段を登って社殿の前に立つ。でも、登山道が見つからない。神社の後、一段上がったところに車道が見えるので強引に登ったら、そこに登山口があった。神社には入らずにそのまま車道を進めばよかったのだ。

登山口には六地蔵がたっていた。
鬱蒼とした杉林の中を登って行く。これはもう登山そのものである。急な斜面をジグザグに登って行くと、朽ちかけた「関山山頂
満願寺」という指導標があった。でも、登山路としては迷う心配のない道で、登山口から30分ほどで林道終点に飛び出した。そこには石仏と将棋の駒を細長くしたような「下馬碑」があった。この下馬碑は永承6年(1052)に」源頼義が寄進したものだという。




 満願寺
満願寺が見えてきた


満願寺の鐘楼


満願寺本堂


関山山頂


ここから満願寺はすぐだと思ったら、それは甘かった。急な坂道をジグザグに上って行く。参道らしく道端には石仏が多い。黄色い花が咲いているのでタンポポかと思ったが福寿草であった。群落となって咲いていてすごくきれいであった。
右に鐘楼が現れると、そのすぐ先が満願寺の本堂であった。この銅鐘は国指定の重要美術品で寛文
4年(1664)に鋳造されたものなのだ。
満願寺本堂は赤く塗られたトタン屋根(銅板かな?)で大層なものではないのだが、天平2年(730)に聖武天皇の勅願によって開基されたというから、すごい格式のお寺なのだ。この本堂の後は広場になっていてすばらしい展望が広がっている。
その一郭に富士山と書かれた案内板があった。この方向に富士山が見えるらしいのだが、残念ながら遠くの山は霞んでいて見えなかった。でも、那須連峰がすばらしくきれいに見えた。
この広場には芭蕉の碑もあった。

  関守の 宿を水なに 問はうもの  (芭蕉)

  卯の花を かざしに関の 晴れ着かな (曾良)

  奥の花や 四月に咲を 関の山 (桃隣)


曾良日記に書かれているものらしいのだが、よくわからない。
下馬碑の広場まで戻って、あとは林道を北に下った。杉林の中をジグザグに下って、ほとんど下まで降りたところに「烏天狗の道 関山登山道中級コース」が分岐していた。私が歩いてきたのは初級コースなのかと思った。
林から抜けてT字路に着く。ここにも芭蕉碑があって、白河関の章の芭蕉自筆の文章が刻まれていた。
丘陵の縁を回り込んで国道4号線に出たが、国道に平行する細い道があったので、これを行く。
この細い道を真っ直ぐたどったら白河市街に着けるはずである。




 白河市街
白河市街に入る


宗祇戻しの碑


白河市街を行く


白河の街の中では「宗祇戻しの碑」を見るつもりである。丘陵の小さな峠を越えて、津田川を渡ると白河の街に入る。ところが、宗祇戻しの碑が見つからない。二万五千分の一の地図をよく見ると、旧街道は左に分岐していることに気がついた。あわてて、左折して路地のような道を行き、広い道に出ると、そこはいかにも昔の街道の面影を残す道であった。そして、なんとか宗祇戻しの碑を見つけることができた。

字路の間の狭い三角地にお地蔵様と石碑がたっている。
文明13年(1481)に白河城主が連歌興行をしたとき、宗祇がこの地までやってきたのだが、道すがらの女性に問いかけたとき優れた和歌で応えたので、みちのくのレベルの高さに感じ入って引き返したのだそうだ。芭蕉の句碑も立っている。

  早苗にも 我色黒き 日数哉

この句は奥の細道にはなくて、須賀川の歌人 可云にあてた手紙の中にあるものだそうだ。
宿場の面影を残す道を歩いて行く。途中には枡形と思われる鉤型に曲がるところもあった。商店街の繁華な通りに出ると、右折して294号線を行く。
左の遠くに白河城の天守閣が見えて、さらに
10分ほど行くと阿武隈川を渡った。
遊女志げ女の碑を過ぎるとすぐに国道4号線に出た。この交差点には東京からの距離の標識があって、192kmと書かれていた。




 矢吹宿へ
国道4号線を行く、東京から192km地点だ


踏瀬の集落を行く


踏瀬の松並木になった


矢吹の町に着いた


国道を
1kmほど行ってから右の細い道に入る。萱根の集落で、国道と違って静かな佇まいの中に道が続いている。古い家もあって、少し遠回りでもこんな道を歩いたほうがはるかに楽しい。
15分ほどで国道に戻ってしまったが、30分ほどでまた左の細い道に入る。地図ではこれが陸羽街道である。
集落の中を少し行くと小田川入口というバス停があった。ここが旧小田川宿なのだろうと思う。長い辻塀の立派な家を見たりして、集落を抜けると田んぼの中の道になった。右には車がたくさん走る国道が見える。
字路に着いて右折、このまま国道に出てしまおうかと思ったが、地図を確認すると、左に丘陵を越す山道があるのでこれを行くことにした。灌漑池を左にみて緩やかに下ると行く手には再び国道4号線、でも、これを横切って踏瀬の集落に入る。
庭先に桜が咲いていたりする集落の中を歩いて行くと、松並木になった。この道はかっての奥州街道で、松並木は白河藩主 松平定信が
2300本の松苗を植えたのがはじまりなのだという。でも、今の松は明治になって補植したものだそうだ。
見事なアカマツを見ながら歩いて行き、16時を過ぎた頃に人家が建て込んできて、矢吹の町に入った。けっこう古い街並みで、その街の真ん中で駅を見つけた。
東北本線矢吹駅はひどくモダンな建物であった。駅の待合とかは二階にあるのだが、疲れ果てて上る元気もないので、下のベンチに座って休憩した。
10分ほど休憩して歩き始めたら、すぐに洋風の建物を見つけた。その前には「大正ロマンのやかたライトアップ作戦」という看板がたっている。この立派な洋館は産婦人科医の屋形貞氏が大正9年に建てたものなのだ。
芭蕉は矢吹の宿に泊まったのだが、次の宿泊地須賀川までは11kmだけなので、続けて歩いてしまう。時間はもう16時半になっているのだが…。




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