奥の細道を往く 
【元禄2年4月3日】太陽暦5月20日

日光→松原公園→瀬尾→日光杉並木→大桑→杉並木寄進碑→大渡→船生→地蔵坂→玉生→芭蕉宿泊の跡 【28km(+裏見の滝見物11km)】

芭蕉は午前中に裏見の滝を往復して、それから玉生まで28kmの道を歩いたのである。曾良によると午後すごい雷雨にあったらしい。


 日光から瀬尾へ
大谷川に沿って行く


赤松林があった


丸山公園と松原公園の石柱


国道121号線に出た

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2008年3月31日(月)

日光東照宮の観光で時間を使ってしまったが、奥の細道の旅を続けなければいけない。今日はこれから玉生(たまにゅう)まで
歩かなければいけないのだ。曾良の日記には玉入と書いているのだが、現在の地名は玉生である。。
パークロッジに戻ったのは1045分頃であった。中に入ったら、金髪のかわいい女の子がアカペラで歌っていて、それを外人のみんなが静かに聴いていた。なんか、映画で見る外国のロッジの風景と一緒である。日本人は私だけで、ひどく場違いな気がしてしまった。音をたてないようにザックを背負って外へ出た。外にご主人がいたので、挨拶をして日光パークロッジをあとにした。

坂道を下って大谷川にかかる霧降大橋の手前の県道を左に行く。
橋を渡ってしまうと、昨日私が歩いてきた日光街道なのだが、芭蕉はあえて裏道を歩いて玉入に向かったのだ。芭蕉は日光では自称「仏の五佐衛門」という篤志家の家に泊まったのだが、その五佐衛門からこの道を教えてもらったらしい。五佐衛門の家は鉢石というところで、それは神橋の少し手前の、ほとんど東照宮の前であったらしい。
芭蕉の歩いたころはすごい田舎道だったらしいのだが、今は県道247号線として、りっぱなアスファルトの道になっている。
右に大谷川の流れを見ながら歩いて行く。20分ほど行くと道は川から離れてりっぱな松林の中を行くようになった。右にはゴルフ場があるのだが、これがすごく広くて、どこまで続くんだ思うほどゴルフ場の敷地が続いた。
ゴルフ場を過ぎたら公園があった。入口の両側に石柱がたっているのだが、右には松原公園と書かれていて、左には丸山公園といかかれていた。公園の真ん中で町の境界線があるのだろうか。
左に団地の建物群を見てさらに20分ほど行くと、ようやく国道121号線に出た。さすがに車の往来が激しい。ここがかっては瀬尾と呼ばれた宿場のようである。



 瀬尾から大渡へ
杉並木があった


倉ヶ崎の集落に入る


東武鉄道を渡る


国道121号線から右に曲がる


国道121号線を横断して、細い路地を少し直進すると杉並木の裏道に出る。二万五千分の一の地図には「日光杉並木街道」と書かれているのだが、今市から分岐した会津西街道だと思う。今までは東に向かって歩いていたのだが、ここからは北上する。
杉の巨木が鬱蒼と茂っていて、その中を歩いて行く。杉の巨木の根本には馬力神とか馬頭観音と刻まれた碑がおかれていて、いかにも旧街道らしい。ある意味では整備されすぎた今市〜日光の杉並木よりもこの道の方が昔の面影をそのまま残しているのではないかと思う。
一旦、国道を横切って倉ヶ崎の集落に入る。ここも杉並木が続いて、その途中に「特別史跡 特別天然記念物 日光杉並木街道」という説明板があった。この杉並木は松平正綱候が寄進したもので、日光神橋を起点にして今市に至り、今市で日光例幣使街道・日光道中・会津西街道の三つに分かれるのだが、そのそれぞれに杉並木はつくられたのだ。
杉並木を歩いてT字路にぶつかる。ここで右折して大桑の集落の中を歩いて行くのだが、この交差点からは真っ正面に雪を頂いたりっぱな山が見えた。那須連山である。
集落の中を行くと「杉並木寄進碑」があった。これは昨日、今市の杉並木入口でみたものと同じものである。この寄進碑は全部で4つたてられていて、起点の神橋畔・日光街道(昨日見た今市にあったもの)・例幣使街道(今市の小倉)と、ここの会津西街道にあるのだ。
寄進碑のすぐ先で東武鉄道の線路を渡って、国道121号線に出る。この国道を200mほど北上してから、右折して県道の279号線に入る。右折せずに真っ直ぐに北上したら鬼怒川温泉で、日光江戸村や東武ワールドスクエアがあるのだが…。
田んぼの中の県道を歩いて行く。大渡へは川室の集落のあたりで左折しなければいけないのだが、その交差点がよくわからなかった。神社の鳥居があったので、地図と照らし合わせて位置が確認できた。

それでも本当にこの道でいいのか心配だったが、大日光工業団地入口の道路標識をみて間違っていないことを確信した。
朝はミゾレだったのに、この頃はすっかり晴れて青空が広がっている。暑いくらいになった。
道が右に折れると大渡の集落である。




 大渡から玉入へ
大渡の集落


集落の中で左折して玉生へ


大渡橋で鬼怒川を渡る


地蔵坂のバス停


玉生の集落


大渡の集落の中に今市へ向かうT字路があるのだが、その交差点には御堂があって、狭い境内に石仏が並んでいた。如意輪観音や如来像の中に不動明王像もあった。
この集落の中にベンチが置かれた自販機があったので、ここで休憩。時間はもう15時になっている。大渡から玉入までは12kmほどなので、この調子だと到着は暗くなってしまうかもしれない。
集落を抜けたところで左折して10分ほど行くと鬼怒川を渡る。江戸時代は橋が洪水で流されることが多くて、橋がかかっているのは10月から3月ころまでだったようだ。
橋がないときは船で渡るのだが、その船賃はすごく高かったらしい。今は立派な「大渡橋」で渡ることができる。芭蕉も橋で渡ったらしいが、橋銭を払ったらしい。もちろん今は無料である。

橋の先の字路を右に行く。ここはすでに塩谷町の船生である。道路標識には玉入まで10kmとかかれていた。
単調な歩きが続くのだが、道端には石仏があったり、集落には地蔵堂があったりで、それなりに変化はある。
板橋の集落を抜けて泉川を渡ったのは
1645分、さらに15分ほど行くと今市から来る国道461号線と合流する。あとはこの国道を行けば玉入である。17時半を過ぎると、日が傾き長い影を引くようになった。玉入の手前では小さな峠を越えるのだが、そこにあったバス停には地蔵坂と書かれていた。峠から下ってすぐに左折すると玉入の集落である。でもその交差点の少し先にコンビニがあったので、そこまで行って今夜の食料を買い込んだ。
玉入の集落に入ったのは185分、完全に暗くなっていた。北に向かって歩いて行くと、芭蕉一宿の跡の案内があったので路地に入る。行き止まりには小さな神社があったが、石碑が見当たらない。よく探したら、神社の小広場の左の藪の中に「芭蕉一宿の跡」と刻まれた比較的新しい石碑があった。ストロボをたいて写真を撮った。
さて、あとはどこにテントを張るかである。この石碑の後ろにテントを張ってしまおうかとも思ったが、草茫々でテントを張りたくない場所である。しかも、すぐ傍の家のおばさんが、いかにも胡散臭そうに私を見ていた。テントを張るのはあきらめて、集落の中を歩いて行く。町の中で道は右折するのだが、地図では直進した先に神社があるようだ。その境内にしようかとも思ったが、それも気がすすまない。町役場があったので、その前の広場にしようかとも思ったが、地図では東
1kmほど先に荒川があるので、その河川敷に決めた。もう完全に真っ暗である。
疲れ果てて、重い足を引きずりながら夜道を歩いて行くと、ラッキーなことに屋根のあるバス停があった。バスの時間を調べると最終が1910分なので、その最終バスが行ったあとで、ここにテントを張ることにした。バス停のベンチに座って最終バスが通過するのを待った。時間は1850分になっていた。


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