奥の細道を往く 
【元禄2年4月3日】太陽暦5月21日

玉生→矢板→かさね橋→なんじゃもんじゃ→大田原→薬師堂→奥沢→道の駅那須与一の郷 【30km】

芭蕉はこの日、8時頃に玉生を出発したのだが、この先の那須野は広漠としたススキの原で踏み跡が交錯して迷いやすかったらしい。親切な農夫に馬を借りて那須野を通過したのだ。



 玉生から矢板へ
バス停にテントを張った


荒川を渡った


矢板市に入った


合会バス停で休憩した

BACK 日光から玉生へ


200841日(火)

夜は寒かった。朝、テントにさらさらと何かが当たる音がする。不思議に思って外に出てみたら雪が降っていた。4月になったというのに雪かよと思ってしまう。まあ、昨日の朝もミゾレだったのだから仕方がない。でも、屋根のあるところにテントを張って本当によかったと思う。塗れたテントを撤収するというのはすごく大変なのだ。
ザックの梱包を終えて、バス停玉生小学校を出発したのは620分であった。芭蕉が玉生を出立したのは8時頃だというのだが、バスを利用する人の迷惑にならないように、始発バスが来る前に出発したのだ。
芭蕉がこの日歩いたのは黒羽までなのだが、私は黒羽の4kmほど手前にある道の駅にテントを張るつもりだ。道の駅にザックを置いて空身で黒羽を往復するつもりなのだ。
ミゾレが小雨になる中、傘をさして10分ほどゆくと荒川を渡る。昨夜はこの河川敷にテントを張ろうと思ったのだが、テントが張れそうな河川敷なんかなかった。バス停にテントを張って正解だった。
緩やかな登りになって、峠に向かって上って行くと小雨は雪になった。650分、小さな峠を越えるところで矢板市の標識があった。
雪が降りしきる山間を歩いて、二つ目の小さな峠を越えて下ったところに合会というバス停があった。玉生から
1時間半歩いて疲れたので、このバス停で休憩。雨や雪の日は休む場所で苦労するのだ。粗末であっても、屋根があってベンチが置かれたバス停というのは本当に助かるのだ。
もう一度小さな峠を越えるとようやく平野に出る。
簗目川にかかる小さな橋を渡ったところに古い碑があって、
「橋供養」と刻まれていた。こんな小さな川なのに橋を押し流すようなことがあったのだろうかと不思議に思ってしまう。地図で確認すると、この川の上流には塩田ダムがある。ダムができるまでは氾濫を繰り返したのかもしれない。
古い家が残る幸岡の集落を過ぎると東北自動車道が見えてくる…はずなのにその高架が見えない。まだ遠いのかと思いながら歩いて行くと、東北道は下にあった。
東北道を過ぎると矢板市街は近い。



 矢板からかさね橋へ
街に入ると坂巻家住宅がある


矢板市街をゆく


長峰公園


かさね橋を渡る


矢板市街に入ったすぐの交差点に、りっぱな門構えの旧家があった。今は矢板記念館になっているのだが、かっては材木問屋で財をなした坂巻家の邸宅なのだという。中に入って見たかったが、開館は
9時からなので入ることはできなかった。まだ8時20分なのだ。
私が歩いて行く道筋にはけっこう古い家も残っていて、旧街道の面影が偲ばれた。
街を抜けると左に長峰公園がある。大きな池も見えるのだが、これは眺めるだけにして通過した。
このすぐ先で国道
4号線に出た。東京までの距離がかかれた標識があって、それによると東京までは140kmということであった。
国道を200mほど歩いてから右の道に入って、小さな峠を越えると行く手には新幹線の高架が見えてきた。
この新幹線の高架を過ぎると、箒川にかかる「かさね橋」は近い。
箒川の向こうに広がるのは広大な那須野である。昔はどうしようもない荒地で、ススキ茫々の中に踏み分け道が縦横に走るという状況で、迷うことなく歩くことはむずかしい大原野だったのだという。
芭蕉は奥の細道の中で、畑を耕す農夫に泣きを入れて馬を貸してもらったと書いている。そのとき、馬に乗った芭蕉に二人の子供がついてきたのだが、そのなかの小さな女の子の名前が「かさね」というのだ。芭蕉はこの「かさね」という名前がすごく気にいったらしい。奥の細道には「かさねとは 八重撫子の 名なるべし」という曾良の句を載せている。
この曾良の句碑が、橋の手前の「沢」という集落の中にある沢観音寺にあるらしいのだが、遠回りになるので止めてしまった。
でも、かさね橋の欄干には芭蕉・曾良と句を刻んだパネルがはめ込まれていた。沢観音寺まで行かなくても、曾良の句碑はこれで十分だと思った。
かさね橋を渡って振り返ったら、新幹線ののぞみが走り過ぎて行くところであった。
超高速の旅を可能にする新幹線と、二本の足で歩いて行く芭蕉の道。すごい対比ではないか。




 かさね橋から大田原へ
与一の里 大田原


こんな指導標がたっていた


大田原市に入った


大田原市街を行く


街角にあった薬師堂


蛇尾川を渡る



かさね橋を渡って薄葉の集落に入ると、道路標識には「与一の里
大田原」と書かれていた。もう大田原は近いのかと喜んでしまったが、本当はまだ6kmほどもあるのだ。
単調な県道歩きが続くのだが、中薄葉を過ぎたところで散策路の指導標がたっていた。「なんじゃもんじゃ」まで200mとかかれている。「なんじゃもんじゃ」っていったいなんじゃと思いながら歩いて行くと、道の右に小さな社がたっていた。粗末な小さな鳥居の奥には柵に囲われた中に卵型の石が置かれている。その石には靁雷神社と刻まれていた。周りを見回したが説明板はないので、結局なんじゃもんじゃって何なのかわからなかった。
この社のすぐ前には「日光北街道」標柱がたっている。大田原と日光を結ぶ42kmの旧街道で、金医13年(1636)に開かれたものだという。芭蕉が黒羽に向かうために通った道とも書かれていた。
10時半、大田原の市域に入った。市街地に入り、新しくできたと思われる4車線の広い道を横切って、路地のような家の建て込んだ中を行くと、国道460号線に合流した。この道は矢板市の東で渡った道なのだが、私が歩いてきた道の北側を通っていて、それが今合流したのだ。市街地の中に、いかにも由緒ありそうな御堂が見えたので立ち寄ってみた。
正面にたっているのは薬師堂である。寛永年間に建てられた御堂なのだが、宝暦7年の大田原大火で消失したのを寛成5年(1793)に再建されて現在にいたっているのだという。大田原市の有名文化財に指定されている。
お堂の中には金剛力士像が二体安置されているということなので、扉の隙間から覗いてみたが暗くてよくわからなかった。

境内には舎利塔や七重の塔など古い石塔がいくつかあって、それぞれ文化財となっている。境内にはベンチがあって暖かな日も射しているので、少し休憩した。
大田原の商店街を歩いて行く。道には「奥州道中 大田原宿」という石柱があって、商店街の中ではあるが昔の宿場の面影を残す古い家もあった。
大田原信用金庫本店の前には、那須与一の銅像だたっていた。那須与一は大田原出身なのだ。
さらに街中を進んで、国道400号線の交差点には、いかにもりっぱな銅製の灯篭がたっている。なにかしら由緒ありそうである。
交差点を渡ったところには黒羽まで10kmという道路標識があった。私の今日のゴールは黒羽の手前にある道の駅なので、あと2時間ほどで着けそうである。まだ1150分なので、黒羽を観光する時間は十分ある。
大田原の街を抜けるとすぐに蛇尾川を渡る。けっこう大きな川であった。橋を渡ったところで、道は右にカーブして、小さな峠のような切り通しを過ぎる。その先、田んぼの中に続く国道を行くと上奥沢の集落に入った。そこの道路標識には道の駅まで4kmと書かれていた。あと1時間だと思うとうれしくなる。上奥沢の集落を過ぎたところで、国道から離れて右の道を行くことにした。こちらの道のほうが近いのだ。建設中のバイパスのようで、広い立派な道である。国際医療福祉大学のキャンパスを過ぎると、道は工事中で狭くなってしまった。
再び、国道に合流すると道の駅はすぐそこであった。到着は1335分である。


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