箸折峠東屋→近露王子→野長瀬一族の墓→比曽原王子→野中伝馬所跡→とがの木茶屋→継桜王子→奥州秀衡三代桜→安倍晴明腰掛岩→中川王子→小広王子→熊瀬川王子

山の中の集落をいくつも通って、登りが続く。「とがの木茶屋」や所々に残る石畳など、昔の街道の雰囲気がいっぱいである。このコースの中でのお薦めは継桜王子社にある一方杉、この杉の巨木群には圧倒されてしまう。
近露で見た桜



石畳を下る


北野橋を渡る


近露王子跡
 83近露王子

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2010320

朝、テントを張った東屋からは近露の集落が一望できた。この景色を見ながら朝のコーヒーを飲む。今日はいよいよ熊野本宮にお参りするのだ。(と思っていたが、熊野本宮まで行き着くことはできなかった)
出発は7時半であった。東屋からの下りはりっぱな石畳道で、急斜面をジグザグに下って行く。いったん車道に出てしまったが、これは横断して再び急な下りが続く。
近露集落が近づくと、きれいに咲いた桜の花が迎えてくれた。民家の横を通って下って行くと広い車道に出た。少し行くと、擬宝珠が立派な北野橋を渡る。橋の上からは悠々と流れる日置川の眺めがいい。
橋を渡ったすぐ左に杜(もり)があって、これが近露王子跡があった。入り口にはいつもの青い説明板がたっていて、石段を上がると正面に近露王子の跡と刻まれた立派な石碑がたっている。この碑の筆跡は大本教教主の出口王仁三郎のものなのだそうだ。この大きな石碑の横にも王子跡の碑があった。こっちの方が慎ましやかで遙かに王子跡にふさわしい。
近露王子は王子社の中でも最も古くからあったようで、さっき渡った日置川ではお詣り前に水垢離をしたらしい。



 84比曽原王子

近露の町を行く


Y字路の分岐


楠山坂の登り口


石段を上ると比曽原王子の碑がある


近露の集落を歩いて行くと緩やかな上りになっている。桜が満開ですばらしくきれいであった。集落の中程には近露伝馬所跡の説明板があった。
集落を抜けようとするところに字路があって、古道は左の細い道を行く。でも、ここに野長瀬一族の墓があるというので、寄ってみることにした。南北朝時代に後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王を助けたのがこの一族なのだ。
その参道が民家の庭先に上って行くので、本当にこんなとこを歩いていいのかと思ってしまった。でも庭先を過ぎると普通の山道になって、指導標に従って何度か曲がって、お墓の前に着く。宝筺印塔が横一列に並んでいた。
墓から熊野古道に引き返して、そこに立つ指導標で確認したら、次の比曽原王子までは2.2kmであった。登りなので45分くらいかかるつもりで歩いて行く。
りっぱに整備された遊歩道を上って行くと、右に近野神社があった。お参りしていこうと思ったが、すごく急な石段が聳えている。めんどうで参拝は止めてしまった。(ところが、ここには二つの王子が合祀されているので、寄るべきだったのだ。あとで悔やんでしまった)
広い車道に出るとすぐ先に十字路があって、ここを左折して楠山坂の入り口に着く。
鬱蒼とした杉林の中を行き、7分ほどで車道に下るが、その合流点には古いお地蔵様がたっていた。
ここからは車道を歩いて行く。緩やかな登りが続き、集落の入り口に着くと、
そこには石仏や碑がいくつもたってた。村に災厄を入れないためのものなのだろう。ここに立つ指導標に比曽原王子まで500mと書いてあった。もうすぐだ。
集落を抜けると、道ばたにいつもの青い説明板がたっていた。これだけかと思ったが、この横に石段があるので登ってみると、奥に比曽原王子の古い石碑があった。



 85継桜王子

左の細い道を行く


とがの木茶屋手前に青い標識


継桜王子の説明板


熊野古道に戻って、次の継桜王子を目指す。
1kmほどなので、すぐだ。
鬱蒼とした杉林の中を車道が続く。でも、すぐに左に細い道が分岐する。熊野古道はこの細い道を行くのだ。民家が見えるようになると、一里塚跡の石標がたっていた。
さらに5分ほど行った大きな杉の下には野中伝馬所跡の説明板があった。中辺路では田辺〜本宮の間に、上三栖・芝・高原・近露・野中・伏拝の五カ所の伝馬所が設置されていたのだ。野中には11頭の馬が常備されて、高い峠越えがある伏拝までの連絡にあたったのだ。
このすぐ先に茅葺きの茶屋があって、店の前には緋毛氈の縁台がおかれている。ここが「とがの木茶屋」であった。昔の街道の姿そのままで目がいってしまったが、その手前左には神社があって、石段が上に続いていた。石段の前にはいつもの青い説明板がたっている。この神社が継桜王子社である。
長い石段を上って行こうとしたら、参道の両脇にはすさまじいばかりの巨木がそそり立っているのに気がついた。この杉の巨木群が「一方杉」であった。枝はすべて南の一方にだけのびているというのだが、すさまじい巨木に圧倒されてしまった。
石段を上って行く途中に広場があって、その奥に継桜王子と刻まれた石碑がたっていた。さらに石段を上って本殿の前に立つ。この本殿の前にもすばらしい巨木がそそり立っていた。



 86中川王子

奥州秀衡三代桜


安倍晴明の腰掛け岩


中川王子跡


熊野古道に戻って、とがの木茶屋の前で休憩した。ここから下ったところに「野中の清水」という湧き水があるらしいのだが、国道まで下るというのでやめにした。
茶店の前を歩いて行くと、すぐに「奥州秀衡三代桜」があった。もちろん昔のものはとうになくなっていて、今は何代目かの植え継がれた桜である。秀衡にまつわる伝説は、乳岩にあったが、ここに連動しているのだ。
ここには和歌山県の朝日夕陽百景の碑もあった。
緩やかに下って行くと、道ばたには安倍晴明の腰掛け石の説明板があったが、どれがその石なのかよくわからなかった。安倍晴明も熊野詣をしていたのかと感心してしまった。なお、清明はここで休憩していたとき、山が急に崩れそうになったのを得意の呪術でそれを阻止したという。
ここから少し下ると広めの車道に合流した。そこには次の中川(河)王子まで400mの指導標がたっていた。もうすぐだ…と喜んでしまう。
中川王子は道ばたに青い説明板がたっていた。でも、ここに立つ指導標には中川王子は上と表示されているので、ザックを置いて行ってみることにした。ところが、これがけっこう距離があって、桟がかけられたりの、すごく険しい道であった。
鬱蒼とした杉林の奥に中川王子と刻まれた石碑がぽつんと立っていた。



 87小広王子

山襞に沿って曲がりくねる道


中辺路の大きな標識


小広王子跡


熊野古道に引き返してさらに歩いて行くと、杉林から抜け出して展望が開けた。前方には熊野古道が山襞に沿って曲がりくねって続くのが見える。なんかすごく遠回りしているみたいだ。
車道の分岐に着くと、そこには東屋がたっていた。分岐する左の道は新高尾トンネルに消えていた。
右の道のすぐ先に旧山道という小さな標識があった。これが古道なのかどうかはわからないのだが、小広王子へ近道と書いてあるので、この道を行くことにした。杉林の中を緩やかに上って、それから下ると10分ほどで車道に出た。これで近道になったのかどうかはよくわからない。上下した分、体力を消耗しただけではないかと思った。
さらに展望の開けた坂道を下って行くと、小広王子まで200mの指導標があった。やっぱり近道だったのだろうか。突然、「熊野古道なかへち」という大きな標識がたっていて、このすぐ先に小広王子跡があった。
小広王子というバス停にならんで、いつもの青い説明板がたっている。その後ろに半分欠けてしまった王子跡の石碑があった。…なにかしら、寂しくなってしまう。



 88熊瀬川王子

三角屋根のトイレがあった


自然石の石段を上る


熊瀬川王子跡


小広王子跡が峠の上で、この先は下りになった。
100mほど下ると、右に熊野古道の指導標があって、車道から離れて杉林の細い道を下って行く。
石畳の残る道を急下降すると、以外とあっさりとまた車道に出てしまった。そこには三角屋根のトイレがあった。このすぐ横には熊野古道の地図板がたっていて、そこから再び山道を下るののだ。
樹林の中を下って沢に降り着き、すぐに橋を渡ると立派な東屋がたっていた。ここからは自然石を並べた階段が続く。
苔むした石段を上って、傾斜が緩まったところに指導標がたっていたのだが、この指導標が複雑な表示になっている。左に上って行く細い道は熊瀬川王子を経て熊野古道となっていて、直進方向は岩神王子
2.3kmとなっている。これは巻き道という意味なのだろうか。私はすべての王子を巡ることにしているので、左の山道を登るしかない。
200mほど上ったら、林の中にいつもの青い説明板がたっていた。この横には熊瀬川王子と刻まれた石碑がぽつんとたっていた。


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