東海自然歩道 岐阜の道


御嵩駅→商家竹家→願興寺→和泉式部の廟所→中山道牛の鼻欠け坂→耳神社→謡坂石畳→マリア像→謡坂一里塚→十本木立場→一呑の清水→唄清水→御殿場→馬の水呑み場→津橋

前回、東海自然歩道を歩いて御嵩まで来たのは2006年のことで、あれから3年も経ってしまった。今回の旅で岐阜の道を終了させてしまうつもりだ。御嵩からの自然歩道は中山道をたどることになる。宿場の昔の面影や石畳道が残っていて楽しいコースである。とくに中山道には幕末に公武合体策のために徳川に降嫁した皇女和宮の史跡がたくさん残っているのだ。


 御嵩宿
名鉄御嵩駅


唐沢橋を渡って宿場に入る


竹家の庭

BACK 継鹿尾山から御嵩へ

2009328日(土)

御嵩駅前の交差点には御嵩宿の観光イラストマップがたっていた。東海自然歩道は可児川の南を通っているのだが、御嵩宿は北岸にあって、御嵩宿をバイパスしてしまうのだ。でも、宿場を歩いていっても先で自然歩道に合流することができるので、御嵩宿を観光してゆくことにした。
東に向かって歩いて行くと左にお寺があって、その先で唐沢橋を渡る。宿場町らしい雰囲気になると、「中山道みたけ館」があった。りっぱな施設であるが、入ってしまうと時間がかかりそうなので、パスした。その先には古い商家がたっている。これは「商家竹屋」で明治10年に建てられたものである。一般公開されていて、入場は無料なので覗いてみることにした。中に入ると管理人のおじさんがいて、事細かに御嵩宿のことを説明してくれる。よくしゃべる人である。この人は今年定年になるので、老後は日本中の史跡をめぐりたいと言っていた。
このおじさんから、さっき通過したお寺、願興寺のことを聞いた。願興寺は天台宗のお寺で、伝教大師によって開かれ、伽藍は兵火で焼失して建て直されたものだが、本尊の薬師如来と脇侍の日光・月光菩薩・十二神将、釈迦三尊像は国の重要文化財に指定されているのだという。これは観ておかなければと引き返した。
境内はがらんとしていて、本堂の格子戸から中を覗いたが、仏像をみることはできなかった。境内をめぐってみると、不動明王の線描碑があった。
願興寺から御嵩宿の中を歩いて行く。けっこう古い家が残っていて、宿場町の面影が残っていた。



 和泉式部の墓
御嵩宿を過ぎるとこんな道


可児川に沿ってゆく


長岡の交差点


国道21号線を行く


町を外れると道は右にカーブしていって、可児川にぶつかると橋の手前に自然歩道の指導標がたっていた。指導標に従ってここで左折して川に沿って歩いて行く。でもすぐにふたたび左折して、少し行くと国道
21号線にぶつかる。ここからは国道を歩いて行くのだ。車がたくさん通るのだが、ちゃんと歩道部分が設けられているので安心である。
菜の花が咲いているのを見ながらのんびり行くと、左のたんぼの中に御堂のようなものが見えてきた。これが和泉式部の廟所であった。
国道から少し入って御堂の前にたつと、中には「いづみ式部廟所」と刻まれた石碑がたっている。でも、「廟」なんて呼び方はすごく偉い人の墓に用いられるものだと思うのだが…。
私の古いガイドブックには


 ひとりさへ 渡れば沈む うき橋に
  あとなる人は しばしとどまる


という歌の碑があると書かれているのだが、どう探しても歌碑はなかった。
和泉式部は東山道から中山道に入って、ここまで来たときに病になり、しばらく療養したがそのまま亡くなったというのだ。でも、和泉式部の墓は京都などいろんなところにあるので、本当かどうかはわからない。和泉式部は平安中期の女流歌人で、中古三十六歌仙の一人である。小倉百人一首にも

 あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
  今ひとたびの 逢うこともがな


が収録されているのだ。彼女はすさまじいほどの男性遍歴があって、藤原道長からは「浮かれ女」とまで言われている。泉和守であった橘道貞の妻になったことから和泉式部の名がついたのだが、人妻でありながら冷泉天皇の第三皇子為尊親王と不倫をして、為尊親王が亡くなるとその弟の敦道親王からも求愛されている。敦道親王との恋の顛末をつづったのが「和泉式部日記」である。私からしたら、とんでもない女だと思ってしまうのだが。



 歴史の道 中山道
青い中山道の指導標


牛の鼻欠け坂


西洞の外れの石標


耳神社


謡坂石畳を行く


国道に戻るとすぐに指導標があって左折する。東海自然歩道の指導標の他に「歴史の道
中山道」という青い指導標もたっていた。今日のコースは中山道を歩くことでもあるのだ。
集落の中で何回か曲がって、集落から抜け出すと道は北東にまっすぐにのびていて、行く手には山が聳えている。この山を越さなければいけないようである。
田んぼが広がって、農家が点在する静かな道を行く。菜の花が咲いていたりしてすごく気持ちのいい道である。
舗装道を歩いていたのだが、指導標に従って右に入ると田んぼの中道になって、坂の登り口に着く。そこからは土の道になるのだが、「中山道 牛の鼻欠け坂」という石標がたっていた。荷物を背に登ってくる牛の鼻がすれて欠けてしまうほどの急な坂であったことからこの名が付いたというのだが、5分ほど登ったら峠に着いてしまった。峠には「牛の鼻欠け坂」の説明板がたっていて、ベンチも置かれていた。すぐそばには石を積んでつくった祠の中に石仏がたっていた。
峠から山道を下って竹林を抜けると西洞の集落に着く。小さな集落で、これを抜けて町道にでたところには「右 細久手宿7700m・左 御嵩宿4100m」の石標がたっていた。11時を少し過ぎている。まだ4kmほどしか歩いていないのだ。
舗装道を緩やかに登って行くと、左に石段があった。これを登ったところにあるのが耳神社である。
急な石段を少し上ると小さな石の祠があった。真新しい御影石の祠である。祠の前には木の棒をすだれにしたようなものがかかっている。よく見るとこれはキリなのだ。この神社は名前の通り、耳の病気に御利益があって、お供えしてあるキリを耳に当てて平癒を願うのだそうだ。病気が治ったら歳の数だけキリをお供えするのだという。すだれのようなキリが奉納されているということは、本当に耳の病気が治ったひとがいるのだろう。すごい。 小さな峠を越えて少し行くと町道から離れて右に入る。そこからは石畳の道が続いていた。
その石畳道の入口には「謡坂石畳」という石標がたっていて、説明板もある。石畳はすごく新しいもので、とても江戸時代のものとは思えない。そのはずで、平成9年から12年にかけて修復整備したものなのだ。
謡坂という名は、このあたりの上り坂がとても急なので旅人たちは歌を唄って苦しさを紛らしたことからつけられたのだという。
石畳を少し行くとマリア像という指導標があったので寄り道することにした。少し行くと公民館のような建物があって、これを左から回り込んで舗装道に出る。右に少し行くと、さっきの公民館のような建物は教会であったことがわかった。教会の入口のすぐ先にマリア像がたっていた。ここには昔、いくつもの五輪塔がたっていたのだが、昭和56年の道路工事のときに、五輪塔の下から十字架が刻まれた自然石が数点発見されたのだ。この地に隠れ切支丹がいたということである。そのことからここにマリア像がたてられたのだ。マリア像の後ろには五輪塔がひっそりと並んでいた。



 歴史の道 中山道
石畳終点


謡坂一里塚


十本木立場


唄清水


御殿場


津橋に着く


石畳道に戻って緩やかに登って行き、民家の前に出るとそこには中山道の説明板がたっていた。安藤広重は東海道五十三次の浮世絵で有名なのだが、その他に「木曽街道六拾九次」も描いているのだ。その中の御嵩宿はここにあった茶店をモデルにして描いたのだという。絵に描かれているのは木賃宿である。今はトタン葺きの古い民家が残っているだけである。

少し行くと謡坂一里塚があった。でも、この一里塚は明治になって一旦取り壊されたものを昭和48年に復元したものなのだ。
ここから緩やかに下って行くと県道に出る。そこには「十本木立場」の説明板があった。今日のコースは中山道なので、あちこちに史跡があるのだ。立場というのは人夫が杖を立てて休憩したところという意味なのだが、それが次第に茶屋が設けられて旅人の休憩所となっていったのである。
県道を右に少し行ったところにあるのが「一呑の清水」である。幕末、将軍降嫁のために中山道を下った皇女和宮はここで喉の渇きを癒したというのだ。そのときすごく美味しかったようで、後に都にわざわざ取り寄せたという話しも残っているのだ。清水には一呑清水と刻まれた碑と石仏がたっていて、屋根もかけられている。でも、すくって呑む気にはならなかった。
ここから謡坂集落の中に入って行く。民家の軒先には紅梅が咲いていたりして、すごくきれいである。集落から竹藪に入って、緩やかに登って行くと「唄清水」があった。小さな丸い水溜まりがあって、その横には古い石碑がたっている。これには「馬子唄の 響きに波立つ 清水かな 五歩」と刻まれていて、嘉永7年の銘もあるらしいのだが、私には読むことはできなかった。五歩というのはこの地の俳人である。この清水の横には「生水では飲用しないでください」という標識があったので飲むのは止めた。
樹林の道を行き、緩やかに登って小さな峠に着くと、そこが「御殿場」であった。御殿場といったら富士山麓の御殿場だけかと思っていたのだが、中山道を下った皇女和宮がここで休憩するために御殿を設けたことからこの名前がついたらしい。そのときの和宮の行列は4〜5000人というからすさまじい大行列である。石段を上ると東海自然歩道の東屋がたっている。展望も開けていて北に残雪の山が見えた。これは恵那山であった。日本百名山の山である。なにかしらうれしくなってしまった。石段を下って自然歩道に戻る。
この峠には「馬の水飲み場」もあった。
檜林の間に続く道を下って行くと、所々に石畳が残っていた。
樹林から抜け出すと、下に集落が見えてくる。どんどん下って行き、バス停がある交差点に着いた。ここが津橋であった。
ここで休憩しながら、ガイドブックを読んでいたら、このすぐ近くに巨岩の重なる鬼岩公園があることがわかった。地図には自然歩道サブコースとも表示もされている。時間はまだ12時半なので立ち寄ることにした。


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