町を外れると道は右にカーブしていって、可児川にぶつかると橋の手前に自然歩道の指導標がたっていた。指導標に従ってここで左折して川に沿って歩いて行く。でもすぐにふたたび左折して、少し行くと国道21号線にぶつかる。ここからは国道を歩いて行くのだ。車がたくさん通るのだが、ちゃんと歩道部分が設けられているので安心である。
菜の花が咲いているのを見ながらのんびり行くと、左のたんぼの中に御堂のようなものが見えてきた。これが和泉式部の廟所であった。
国道から少し入って御堂の前にたつと、中には「いづみ式部廟所」と刻まれた石碑がたっている。でも、「廟」なんて呼び方はすごく偉い人の墓に用いられるものだと思うのだが…。
私の古いガイドブックには
ひとりさへ 渡れば沈む うき橋に
あとなる人は しばしとどまる
という歌の碑があると書かれているのだが、どう探しても歌碑はなかった。
和泉式部は東山道から中山道に入って、ここまで来たときに病になり、しばらく療養したがそのまま亡くなったというのだ。でも、和泉式部の墓は京都などいろんなところにあるので、本当かどうかはわからない。和泉式部は平安中期の女流歌人で、中古三十六歌仙の一人である。小倉百人一首にも
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
今ひとたびの 逢うこともがな
が収録されているのだ。彼女はすさまじいほどの男性遍歴があって、藤原道長からは「浮かれ女」とまで言われている。泉和守であった橘道貞の妻になったことから和泉式部の名がついたのだが、人妻でありながら冷泉天皇の第三皇子為尊親王と不倫をして、為尊親王が亡くなるとその弟の敦道親王からも求愛されている。敦道親王との恋の顛末をつづったのが「和泉式部日記」である。私からしたら、とんでもない女だと思ってしまうのだが。
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