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遍路で想うこと
  歩くこと、それが遍路
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  お寺の商い

 














遍路ってなんだろうと考える。でも、理屈で考えてわかるものではないだろうと思う。
ただ歩く、前に続く道を見つめて、ひたすら歩き続ける。
歩き始めたときは、家に残してきたいろんなことをあれこれ考えていたのに、家から遠く離れてしまって、ただ歩き続ける毎日をすごしているうちに、それはどうでもいいことに思えてくる。そんなことを考えていること自体がバカらしくなってくる。ひどくつまらない些細なことにこだわっていた自分に気がつく。
毎日が歩くこと。
車がどんどん追い越して行く。アスファルトの道がどこまでもどこまでも続く。
雨が降る。傘をさして、カッパをかぶって歩く。山道を登る、急な坂を下る。鬱蒼とした森の中を行く、弧を描いて続く海岸線を歩く。
なんのために歩くのか、たぶん次の札所にたどり着くためなのだろう。でも札所にお参りすることが遍路なのか?
そうではないということを感じはじめる。

足が痛い。アスファルトの道を歩き続けるのは本当につらい。足底が麻痺してくる。
朝から晩まで、痛む足を引きずりながら歩く。でも、いつのまにか無心になっている。
前の道をみつめて、ただ歩く。
歩くにつれて、景色が流れて行く。
いくつもの橋を渡る、いくつもの峠を越える、いくつもの山里を過ぎる。
庭先に咲く花たちをきれいだと思う。山を覆って咲き誇る桜の花を美しいと思う。鮮やかな新緑、輝く緑に心が洗われる。
真っ青にそして、どこまでも広がる黒潮の海、空にとけてゆく水平線、ただ、広いなあと思う。繰り返し打ち寄せる白い波。大きく深呼吸をしてしまう。
自然の中に溶け込んでゆく自分、たださすらい、流れ去り、移ろってゆく自分。
次の札所まであと何キロだろう、何時間かかるかな、今日はどこに泊まろう、そんなことしか考えない自分。
いつのまにか、頭で考えていた「遍路」が消えてしまって、「歩くことそのものが遍路なんだ。」ということが自然に心に棲みついている。理屈ではなくて、そうなんだとわかってしまう。
八十八の札所にお参りするのが遍路ではなくて、その札所の間の「道を歩く」ことが遍路なんだと…。

ただ歩く、1200kmの四国一周の道を歩き続ける。その歩き続ける日々のなかで、いつのまにか、無心になっている自分に気がつく。自分を縛っていたものから解き放たれている自分がいる。
自分が透きとおってゆく。

それが…、たぶん、遍路なのだろう。




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