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遍路とはさすらうことで、移ろいゆくことだと思う。
でも、人の生活は定まった家をもつことで成立していて、遍路はそれと対極をなすものだと思う。
人はいつからさすらうことをやめてしまったのだろう。
縄文人は狩猟によって生活をささえ、さすらう人々であった。
だが、人は農耕を知ることによって定住することを覚えた。農耕文化によって初めて人は生活の安定を得ることができ、文明を発展させることができたのだ。
世界四大文明エジプト・インダス・メサポタミア・黄河、その全てが農耕文化によって成立したものだ。
しかし、定住することはまた、人に別の不幸をもたらしたのではないか。
農耕文化とは「所有」することである。土地を所有し、生産したものを保存所有することだ。それは富の蓄積であり、そこから貧富の差が生まれる。権力者が現れ、身分格差が生みだされる。その延長線上に現代の文明社会はあるのだ。

私は遍路をしながら思う、定住し家をもつことがあらゆる欲望の根元ではないかと。
住まうことから所有が始まる。住まいがあるからそこに便利なものが欲しくなり、より豊かな生活を求めて欲望は無限に膨張してゆく。
住まうことから人と人との毎日関わりあいが生じる。家族であり、近隣であり、職場であり、男と女であり…。そうした関わり合いの連続が、嫉みや妬み、愛憎を生みだす。軋みをつくってゆく。
遍路し、さすらうことはそれらをすべて捨て去ることだ。
家を捨て、家族を捨て、仕事をすて、財産を捨て…。

住まう家がないから財物は必要ない。人がその日一日をすごすために必要なものというのは、ほんの少しのものですむのだ。そして、人が持って歩ける量はかぎられていて、もし自分に余る分を背負い込んだとしたら歩き続けることはできない。
遍路では所有するという欲望がいつのまにか消えてしまう。

煩わしい、人と人とのつながりもない。出会いは一瞬であり、明日には別れて行くのだ。しかし、だからこそ「一期一会」なのだ。ただひとときの人との関わりあいも、大切な出会いだと理解できるのだ。
人生の中でも、出会いと別離は繰り返される。そう思うと人を憎んだり、執着したり、妬んだりということは、たまらなく空しいことだと気がつく。
さすらうこと、遍路することは、自分にまとわりつくあらゆるものを捨て去ってゆくことなんだろうと思う。人はそうしたものを捨て去っても生きてゆけるし、捨て去ってこそ、本当の裸の自分を見出すことができる。
でも私は、家に住まうこと、財産を持つこと、家族をもつこと、人と人とのつながりを持つこと、そうしたことを全面的に否定しようというのではない。
すべてを捨て去っても生きてゆけること知っているということ、それを理解しているということ、それだけで人の生き方というのはずいぶん違ったものになると思うのだ。
家にいても、もっと豊かで優しい気持ちで生きていけると思うのだ。


もしかしたら、それこそが遍路で得られる「大切」なことなのではないかと思ったりする…。





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