■天台門宗 ■開基/正澄上人
■御本尊/千手観世音菩薩
寺の名は「めいせきじ」と呼ぶが、元々は「あげいしじ」であったため、土地の人は「あげいしさん」と呼ぶそうである。仁王門を入るとすぐ右に弘法大師修行の跡という「弘法井戸」がある。
     ■第42番札所 仏木寺から 10.8km
     ■愛媛県宇和町明石201
     ■TEL 0894-62-0032


BACK 42番 仏木寺


48日(23日目)

真夜中に目が覚めると、近くでフクロウの泣き声がする。そしてしばらくウトウトしていたら、今度は獣の足音。息づかいが近くで聞こえる。まさか、こんなところに熊は出ないだろうとたかをくくっていたが、それでもけっこうスリルを感じてしまった。
5時半に起床。今日の撤収はできるだけスピーディにと思って急いだが、結局パッキングを終えたのは6時半であった。
今朝はまず歯長峠を越える。ガイドブックには鎖場まであるすごい急登が待っているらしい。遍路歩きの最期を飾るにふさわしい道である。
うんと楽しみにしていたのだが、これがまったくたいしたことなくて、鎖場というのは、単なる鎖の手すりであった。それでも、かなり急な露岩の登りがあった。
遍路道で山の岩場を期待してはいけないようである。

この急登が終わると道は平坦になった。峠には7時頃について、お堂が建っていた。ガイドブックにある「見送り大師」である。
ここから山道を下る。
車道に合流したのは720分、少し行くと川の手前に東屋が建っている。ここに泊まる計画もあったのだが、車道が近すぎる。昨夜の野営は正解だったと思った。
肱川を渡って広い車道を左に行く。10分ほど行くと遍路道の指導標があって、そこに目だないお堂が建っている。これが導引大師であった。少し行ったところで県道から離れて集落の中の道を行く。85分、再び県道に出るとそこに新しい東屋がたっていた。やがて道は高速の高架をくぐって、宇和町の中に入って行く。遍路道の指導標に従って歩いていったら、かなり遠回りをさせられてしまった。
田んぼの中の道を西に向かって真っ直ぐに行く。再び高架を潜ると、林の中を登って行く。
左に食堂兼お土産屋さんを見て、すぐに右に石段があってその上に山門がたっていた。これが明石寺であった。
山門を潜って境内に入ると、門の前で甘茶の接待をしていた。考えてみたら、今日は48日で、花祭りではないか。お釈迦様の誕生日である。のどが渇いていたこともあって、甘茶を3杯も飲んでしまった。うまかった。

さて、今回の遍路ではこの43番明石寺が最期の札所になる。あとはJR線のある大洲まで歩くだけである。
ここから遍路道は山を越える。指導標がきちんんと立っているのだが、そこには卯之町文化村の表示がある。この山を越えたところが卯之町で、ここには古い街並みが残っているのだ。今日はここを観光して行くつもりだ。山道が下りになると、林の中にできたばかりのきれいな東屋があった。さらに行くと、林を抜けて、右に学校があった。そこでは今日が入学式らしい。校門で学校名を見たら愛媛県立聾学校であった。
さらに家並みの中を下って行くと、右に古い家並み。これを写真におさめて、さらに下ったら高野長英の蟄居跡があった。たしかにこのあたりは文化村である。
私はもう一つ旧開明学校を見たいと思っているのだが、そのまま下って行ったら国道に出てしまった。残念、見逃したかと思って国道を歩いて行ったら、開明学校の道路標識を見つけた。少し後戻りしたが、この明治15年建築の校舎を見ることができた。
博物館もあったのだが、これには入らずにそのまま国道に戻って10時。あとはひたすら国道を歩いた。
大洲市の手前に鳥坂峠がある。この峠を越える遍路道があるのだが、これは通らずに、国道をそのまま行って、トンネルで峠を越えた。13時になった。
もう大洲市は近い…はずなのだが、ものすごく遠く感じた。道はどんどん下って行く。はるか向こうの下に街並み。あそこまで歩かなければいけないのかと思うと、かなりつらい。
高速道路を越えたのが2時、ちょっとした峠を越えて、やっと大洲市内に入ったのは3時であった。
街並みに入ったと思ったら、意外とすぐに「おはなはん通り」があった。この古い通りを歩いて行くと中学生がオリエンテーリングをしていて、いくつものグループが地図をもって街中をさまよっていた。
おはなはん通りから「おおず赤煉瓦館」へ行く。今は喫茶店になっていて、これは外から写真を撮っただけ。
次に向かったのが大洲城。肱川の岸辺の丘の上に立っている。
岸辺から隅櫓を見て天守に登る。天守広場に登って行くと、私が歩いてきた道は通行止めの道であることがわかった。
天守閣はつい最近に再建されたもので、白壁がきれいである。天守広場の桜も満開で、すばらしい眺めであった。
急いで下る。私の今日の泊まりは「十夜ヶ橋」のつもりでいる。ここには通夜堂があって、そこに泊めてもらうには、5時までには着きたいのだ。
肱川にかかる橋を渡ったのは4時、ここから十夜ヶ橋までは4kmほどである。ギリギリだ。街中の道をひたすら急ぐ。
この間がめちゃくちゃに遠く感じた。急いで歩いて、十夜ヶ橋に着いたのは445分。間に合った。
このお寺の納経所に行って、泊めて欲しいと頼むと、快く了解してくれた。
同宿者がもう一人いた。
荷物を置いて、お風呂とスーパーの買い出しに行った。
遍路最期の日、風呂にも入って、布団の中で眠ることもできた。


49日(24日目)

私と同宿したのはカメラマンで、山と渓谷社が発行する、四国遍路のガイドの取材中なのだそうだ。朝の別れ際に、写真を撮ってくれた。
通夜堂を後にして、まず十夜ヶ橋に寄った。小さな流れを渡ったその向こう岸の橋の下が十夜ヶ橋である。昔、弘法大師がこのあたりを歩いたときに泊まるところがなくて、橋の下で野宿したのだそうだ。そのとき、あまりにも寒くて、一晩が十夜にも感じたことから「十夜ヶ橋」というのだ。橋の下には弘法大師の野宿しているレリーフがあって、そこには灯明がともっていた。
私は今日、朝一番の予讃線に乗って、丸一日かけて京都まで行くつもりなのだ。青春18切符を使うので、京都までは各駅停車を乗り継いで行くのだ。
この十夜ヶ橋から2kmほど歩くと新谷駅がある。陸橋で線路を越え、高速の高架を潜って、右にプラットホームが見えた。これが新谷駅。
着いたのは7時であった。
ホームで普通の服に着替えて、パッキングもしなおした。
755分発の列車に乗った。もう歩かなくてもいいのだ。
車窓を景色が流れて行く。桜がきれいだ。
鉄道便というのはなんと便利なものかと、つくづく思ってしまった。
京都に着いたのは1817分。


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東屋にテントを張った


歯長峠、後ろが「見返り大師」お堂


歯長地蔵のお堂と東屋


道引大師


石段を登って明石寺へ


明石寺本堂


山道を下って行くと新しい東屋があった


卯之町の旧開明学校が見たかった


大洲町の「おはなはん通り」


おおず赤煉瓦館


大洲の肱川橋


十夜ヶ橋


新谷駅。またすぐに帰ってくるぞ













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