私が仕事を辞めてしまったときに、やりたいと思っていたことは、日本のすべての山を登ること・東海自然歩道を踏破すること・四国遍路をすること、そして松尾芭蕉の奥の細道を歩くことであった。
仕事を辞めてからあっという間に5年経ってしまったが、まだ手がつけられずにいるのが奥の細道である。
芭蕉が歩いた奥の細道を忠実に辿ろうとするとかなり綿密な調査が必要で、「奥の細道」の原典も精読しなおす必要がある。
ただ、「奥の細道」という書は、さすがに俳諧師の芭蕉の書いただけあって、極めて簡潔な文章で綴られている。字数は13,000字ほどで、原稿用紙ならわずか33枚ほどにすぎない。「奥の細道」だけでは芭蕉の歩いたコースを判読することは不可能なのだ。
図書館に通って、奥の細道について書かれたものをいろいろ読みあさったら、幸いなことに芭蕉に同行した曾良が詳細な旅日記を残していていることがわかった。曽良日記には「奥の細道」本文に現れない宿泊場所や立ち寄った先が記されているので、これをもとにして芭蕉の歩いたコースを推定できるのだ。
奥の細道を歩くという本はたくさんあるので、何冊か読んでみた。でも、本に登載された大雑把な地図では芭蕉が歩いた正確なコースを知ることはできない。しかたがないので二万五千分の一の地図を用意して、日光街道や例幣使街道の本とつきあわせて、地図に赤線でルートを記していった。
この作業で詳細にコースを確認して行くと、昔の街道は今の県道や国道そのままではなかったことがわかる。最近の幹線道路は集落をバイパスするようにつくられているので、正確に旧街道をたどろうとすると、国道や県道から外れて、集落の中の細い道を辿ったりしなければいけないのだ。
さらに、芭蕉は幹線街道から外れることが少なくない。たとえば室の八島へ立ち寄るために日光街道から大きく外れてしまったし、日光から芦野に向かうときも裏道を通っている。この作業にはけっこう手間取って、二万五千分の一の地図を前に悩んでしまうことが多かった。

また、せっかく旧街道を歩くのだったら、街道に残る一里塚や本陣跡・古い道しるべ石なども見て行きたい。旧街道の本と照らし合わせながら、こうした見所も地図に表示していった。
さて行程スケジュールなのだが、これは芭蕉の一日とまったく同じくした。たとえば、芭蕉の第一日目の宿泊は春日部なので、私も深川から春日部まで歩く。第二日目は春日部から間々田なので、私も同じように間々田まで歩く。こうすることによって芭蕉の旅というのがどんなものだったのかを理解できると思うのだ。(奥の細道を実際に歩いた人の本も何冊か読んだが、完全に芭蕉と同じ日程で歩いた人はいなかった。)ただ、芭蕉は途中で長期間滞在するということもあったのだが、(たとえば黒羽では13日、須賀川では6日も滞在している。)私には黒羽や須賀川に寄る辺はないので一泊だけして先に進むしかない。
芭蕉は旅籠や知人の宅に泊まる旅をしたが、私はテントを背負って行くことにした。なにかしら四国遍路に似た旅になりそうである。

芭蕉が深川から旅立ったのは元禄
2(1689)327日、今の暦で516日のことであった。芭蕉45歳である。
私の旅立ちは318日であった。まずは深川から郡山まで、11日間の旅を予定している。

旅に持って行った本は

芭蕉 おくのほそ道(岩波文庫)
芭蕉「おくのほそ道」の旅(金森敦子 著)
芭蕉 奥の細道事典(山本偦 著)
そして、二万五千分の一の地図



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2008年3月17日




 
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