奥の細道をゆく 
【元禄2年5月3日(太陽暦6月19日)】

飯坂温泉芭蕉宿泊地→十網の渡し→不動寺→松原寺→桑折(桑折寺→旧伊達郡役所→法円寺田植え塚→無能寺)→奥州羽州街道追分→藤田→弁慶硯石→阿津賀志山防塁跡→貝田宿→伊達の大木戸→越河宿→諏訪神社→馬牛沼→鐙坂→甲冑堂→斎川宿→白石城  【29km】

芭蕉は9時半頃に飯坂温泉を出発したのだが、この日は雨だったらしい。泊まった宿がひどかったせいもあって、落ち込んでいたらしいが、なんとか無事に大木戸を越えて伊達藩領に入ったのだ。



 飯坂温泉
これが福島の飯坂線駅


芭蕉の宿泊へは狭い階段を下る


芭蕉宿泊の石碑


途中にあった「舞鶴の松」

BACK 福島から飯坂へ

2008415

前回の歩きから5日過ぎて、疲れがとれたので奥の細道の続きを歩く。
もう福島まで来ているので、仙台からは日帰りできる。
仙台発の始発に乗って、福島に着いたのは7時半頃。飯坂線の電車に乗り換えるのだが、時間があるので駅構内から外に出て、マクドで朝食セットを買って電車に乗り込んだ。740分の電車に乗ったのだが、通学の学生がいっぱいで、すごく賑やかであった。この連中が下車したのは終点の2つほど手前で、静かになったと思ったらすぐに着いてしまった。
今日は飯坂温泉から白石までの30kmほどを歩くのだ。でも、その前に前回見逃した芭蕉が泊まった宿の跡を訪ねなければいけない。
奥の細道には「飯坂」ではなく「飯塚」と書いているので、芭蕉の勘違いかと思ってしまうのだが、伊達文書に飯塚と称した例があるので間違いではないらしい。
奥の細道によると、芭蕉が泊まった宿は土間にムシロを敷いただけで灯りもなく、蚤や蚊で眠れないほどひどいところだったらしい。おまけに雷が鳴るわ雨漏りはするわで、持病もおきて、もう消え入らんばかりだったと書いている。宿代をけちったのかと思ってしまうのだが、ともかくひどい宿だったのだ。
芭蕉にこんなことを書かれたら飯坂温泉も困ってしまうだろうに、ちゃんとその記念碑をたてているというのがすごい。

駅から川に沿って坂を上がってゆくと、「舞鶴の松」があった。名前の通り、松の枝が鶴が羽を広げたように広がっている。枝張りは21mもあるのだ。
さらに坂を登って行くと、「俳聖芭蕉ゆかりの地」という石標がたっていた。これが芭蕉の泊まったところである。指導標に従って細い路地に入ると、急な階段が川に向かって下っている。降りついたところは小さな広場になっていて、その真ん中に石碑がたっていた。石碑には、奥の細道の飯塚の章がそのままが刻まれている。飯坂温泉でひどいめにあったという話が書かれているのだ。



 松原寺へ
十網橋


商店街を行く


桑折町に入る


松原寺


来た道を飯坂温泉駅まで引き返す。駅前で左折して十網橋を渡る。川を見下ろしたら、対岸のコンクリート壁に「十網の渡し」と書かれているのが見えた。芭蕉の当時は橋がなくて、渡し舟で摺上川を渡ったのである。

橋を渡ったところで右折して、道は西に向かうようになる。道路標識には桑折まで6kmと書かれていた。この道を湯野街道というらしいのだが、古い街道の雰囲気が残る街並みであった。湯野中央商店街と書かれたゲートがあったが、とても街の中央という雰囲気ではない。
この寂れかかった商店街を歩いて行くと、大きな石の鳥居がたっていて、その前には「おくの細道西根郷」という標識がたっていた。芭蕉がこの道を通ったというだけのことなのだが…。

この鳥居のたつ交差点からは、なにやら由緒がありそうなお寺が見えたので行ってみた。伽藍はたいしたことはないのだが、桜が満開ですばらしくきれいであった。
このすぐ近くには不動寺がある。ついでなので寄ってみた。かっては「高寺堂菩提寺」と称して、千有余の末院をもった陸奥三山の一つだったのだが、比叡山衆徒の焼き討ちにあって滅びてしまったらしい。

街並みを過ぎると果樹園の中の道になる。さすがに果物の福島だけあって、一面どこまでも果樹園が広がっていた。振り返ると果樹園の向こうには雪をいただいた吾妻連峰が美しい。吾妻連峰から少し離れた右にも雪の山並みが見える。安達太良山であった。残雪の峰々は本当にきれいであった。
920分、国道から左に外れて松原寺に立ち寄った。
この寺には「葛の松原碑」があるのだ。奈良の興福寺の学僧覚英は諸国行脚の後、この寺に居を定めたのである。覚英は関白藤原師通の四子というすごい名門の生まれで、そのゆかりで西行もここを訪ねたらしい。葛の松原碑というのは、福島藩主の板倉公重が西行の撰集抄でこのことを知って、記念碑をたてたのである。
松原寺に向かって坂を上って行く。境内には枝垂桜が満開ですばらしくきれいであった。境内からさらに石段を上ると御堂があって、その横に松原碑がたっている。新しい覆い堂がかかっていた。
芭蕉は西行を慕っていたので、このお寺も訪れたのだろうか。でも、芭蕉も曾良もなにも触れていない。



 桑折
JR東北線を地下道で渡る


桑折寺


旧伊達郡役所


法円寺


無能寺


桜がきれいだったことに満足して国道に引き返す。すぐに東北自動車道の高架をくぐって、さらに
10分ほどで新幹線とJRの線路を横切らなければいけない。新幹線は高架をくぐるのだが、JR東北線を渡ることができない。地図ではちゃんと道があるのに…と焦ったが、これは地下道で渡るのだった。地下道の入口を見逃していた。
いよいよ桑折の町の中に入って行くと、すぐに桑折寺という大きな寺院があった。境内には一遍上人の銅像がたっていて時宗の寺である。この寺の山門は福島県指定の重要文化財に指定されていた。天文17年(1548)、西山城の門をここに移したものだという。見た感じがすっきりして好ましい門である。
街の中を歩いて行くと十字路に出て、そこにはすごい洋館がたっていた。重要文化財の「旧伊達郡役所」である。明治16年に建てられたもので、大正15年に郡役所が廃止されるまで執務が行われていたのだという。
中に入ることもできるので覗いてみた。二階には半田銀山に関する展示があった。半田銀山はこのすぐ近くにあったらしくて、規模も大きいものだったらしい。私は聞いたことがないのだが。
この広場には芭蕉の銅像がたっていた。でも、どこかで見たような…と思って確認したら飯坂温泉駅前にあったのと同じであった。台座には奥の細道の「佐藤庄司が旧跡」と「飯塚」の章が刻まれていた。
ここで道を左折して北に向かって歩いて行く。竜宮城のような門がある大安寺に寄って、それから法円寺に寄った。法円寺には芭蕉の「田植え塚」があるのだ。田植塚というのは、芭蕉が須賀川の等躬宅で詠んだ「風流の はじめやおくの 田植唄」の句を、桑折の俳人 馬耳がここに埋めて塚を築いたものなのだ。その句が芭蕉の親筆というわけではなくて、芭蕉の追慕と当地の俳壇の隆盛を祈念したという、それだけのものなのだが。
塚に置かれた石には芭蕉の句が刻まれていた。
古い宿場の雰囲気を残す街並みを歩いて行くと、いかにも立派なお寺があった。無能寺という。参道を行くと枡形のように鉤型に曲がって門をくぐる。境内には松の古木が庭いっぱいに枝を広げていた。御蔭廼松(みかげのまつ)というのだ。
無能寺から10分ほど行くと字路があって、そこには「奥州街道 羽州街道追分」の標識がたっていた。小さな公園として整備されていて、休憩所もつくられていた。ここで休んでいたら、近所のおばさんに奥州街道を歩いているのかと声をかけられた。最近NHKで、日本橋から仙台まで歩く「街道てくてく旅」という番組番組があったのだ。それを倣って歩く人がけっこういるらしい。



 伊達の大木戸へ
藤田の町に入る


弁慶の硯石


阿津賀志山


貝田宿に入る


宮城県に入った


街から外れて果樹園の道を
1時間ほど行くと藤田の集落に入る。土蔵造りの家があったりして情緒のある街並みである。
この街の中に藤田城跡があるはずなので、注意しながら歩いたが指導標を見つけることはできなかった。城山らしきところに鹿島神社があったのでこれに登ってみた。でも、城跡という標識はなかった、本殿の横に赤く塗られた小社があって、それは竹駒神社であった。竹駒神社は日本三大稲荷の一つ(と自称している)で、宮城県の岩沼市にあるのだ。(私は岩沼に3年住んだことがあるのだ)それが、こんなところに分社があるなんて…。

藤田の町を抜けたあたりには弁慶の硯石があるはずなので、これを探しながら歩いて行く。見つからない。交差点から外れてかなり探したのだがどうにも見つからない。あきらめて先に進んだら…指導標を見つけた。国道から西に外れて丘に登って行く。その丘の頂上に大きな石があって、窪みには水がたまっていた。これが弁慶の硯石であった。芭蕉は義経主従に関する史跡にはすごく熱心だったので、奥の細道にも曾良日記にもかかれていないけどこの地を訪れたのではないかと思ってしまうのだ。
この近くには義経の腰掛松もあるので、これを探しながら歩いた。でも、事前に調べた地図の位置が間違っていて、とうに通り過ぎているのに気がついた。
藤田の町を過ぎると行く手には大きく阿津賀志山がそびえる。
頼朝が奥州平泉討伐に向かったとき、藤原泰衡はこの阿津賀志山に砦を築いてこれに備えたのだ。国道を左に外れて細い道を行くと「阿津賀志山防塁跡」という説明板があった。見回しても防塁らしきものは見当たらなかった。
このあたりは大木戸という名前の集落で、仙台藩の大木戸があったところなのだ。ところが、阿津賀志山防塁の説明はあっても大木戸についてはわからなかった。

桜がきれいに咲く街並みを行き、国道を横切って貝田の集落に入る。ここには貝田番所跡がある。集落の入口には「貝田宿」という標識がたっていた。宿場らしい雰囲気が残る街並みを行くと、おくの細道自然歩道終点の標識がたっていて、そこから左100Mに貝田番所跡があるという。どんなところか楽しみにしていったのだが、普通の民家の前に貝田番所跡という標識だけがたっていた。貝田番所がどんなものかの説明もない。がっかりしてしまった。
JR貝田駅を過ぎて国道を行くと、宮城県の標識があった。ここが福島県と宮城県の県境なのだ。国道にある東京からの距離の標識には293kmとかかれていた。まだ300kmを越えていないのだ。
このすぐ先、道の反対側に「下紐の石」があった。車の通行が多い国道を横切らなければいけなくて大変なのだが、無理をして渡った。ここに坂上田村麻呂が関所を設けてから「下紐の関」として歌枕の地になったらしい。
県境の先で東北自動車道の高架をくぐるのだが、その手前で左を見たら、越河番所という看板がたっていた。ここにはいくつ関所があったのだと思ってしまった。時代によって関所の名前が違うのだろうか。



 甲冑堂へ
越河宿の入口


諏訪神社


馬牛沼


鎧坂にあった孫太郎虫供養碑


鬼ずるす石


高架をくぐって、緩やかに下ると左に越河宿の入口がある。宿場の通りから
左折して、JRの線路を渡ると諏訪神社があるのだが、そこに芭蕉の句碑があるというので行ってみた。線路を渡ったところには定光寺という寺があって、そこから北に向かうと諏訪神社の入口があった。坂道を上って行く。
石段を上って、石の鳥居をくぐると境内に着く。そこには自然石に芭蕉と曾良の句が刻まれていた。

 咲みたす 桃の中より 初さくら 芭蕉
 梅さくら 松は御前に 夏の月 曾良


この句はどこで詠んだものなのかわからない。それにどんな縁で芭蕉の句碑を立てることになったのか…不思議だ。

線路に沿って歩いて行くと道があぜ道のようになってしまった。なか線路を渡れなくて困っていたが、高い土手に上って入ったら、鉄橋で線路を渡ることができた。でもその前後の道は人がほとんど通らないような踏み跡であった。
旧街道を1時間ほど歩くと国道に合流して、10分ほどで馬牛沼に着いた。大きな沼で、満開の桜で飾られていた。曾良は「万ギ沼」と書いている。
馬牛沼から満開の桜を眺めながら山間を緩やかに下って行くと「鐙坂」という標識があった。昔は、鐙が摺れるほどの険しい道だったので鐙坂といったのだ。山の斜面には碑がたくさん置かれていた。
すぐに田村神社に着いた。この神社の境内に甲冑堂がある。六角形の立派な御堂で、中には甲冑姿の女性像が二体安置されている。これは佐藤継信・忠信兄弟の妻であるというのだが、それは江戸時代になって云われはじめたことで、元々は坂上田村麻呂が祀った女神像だったらしい。芭蕉は義経の忠臣佐藤兄弟が好きだったので、当然ここに立ち寄ったのだと思う。
奥の細道では、医王寺の箇所で

中にも二人の嫁がしるし、先哀也。女なれどもかいかひしき名の世に聞こえつる物かなと袂をぬらしぬ

と書いているのだ。

私が訪ねたとき、甲冑堂は閉まっていて、中を覗くことはできなかった。佐藤継信・忠信兄弟の妻の像を見たかったのだが。
満開の桜の道を下って行き、「鬼ずるす石」というわけのわからない案内板を過ぎると、斎川宿に入る。
斎川宿から国道に出て、新幹線の高架をくぐると東京から301kmの標識があった。やっと300kmを越えたのだ。時間はもう16時であった。



 白石城
東北自動車道の高架をくぐる


白石城への遊歩道


白石城


道祖神社を見て東北自動車道の高架をくぐり、
10分ほど行くと国道から離れてまっすぐ白石市街に向かう道がある。家がたてこんできて、白石駅は近いと思うのだが、なかなか着かない。駅の交差点に着いたのは17時であった。
まだ明るいので、白石城を見て行くことにした。西に向かって歩いて行くと、市役所の構内に入るのだが、その中の城に向かう道には「城来路(シロクロード)という名前がつけられたいた。
階段を上ると城山を周遊する遊歩道があって、そこを流れる水路に沿って行くと、城の入口があった。
坂道を上ると白塀が現れて、その奥に天守閣がそびえていた。
1710分であった。白石城は伊達家の重臣片倉家代々の城で、天守閣と大手門は平成7年に復元されたものである。大手門をくぐって本丸広場に入る。花祭りの真っ最中みたいで、花見の人が多かった。夜はライトアップされるのだ。
本丸から北に下って、武家屋敷通りを歩いてみた。流れに沿って歩いてゆくのだが、武家屋敷はほとんど残っていなかった。武家屋敷らしき家もあったが、最近の門構えであった。
駅に向かうために細い路地を歩いていたら「神石白石」を見つけた。白石の地名はこの石に起因するというのだ。
駅に着いたのは1745、30kmだけの歩行だったのに、すごく疲れた。


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