奥の細道を往く 
【元禄2年5月2日(太陽暦6月18日)

福島駅(芭蕉・曾良像)→福島県庁(福島城址)→文智摺公園(文知摺石→文知摺観音堂→多宝塔→源融・虎女の墓)→虎の清水→虎女の墓→月ノ輪の渡し→瀬の上宿→医王寺(佐藤兄弟の墓)→佐藤庄司の旧宅(大鳥城跡)→飯坂温泉(鯖湖湯)→飯坂温泉駅  【19km】

芭蕉がこの日に歩いた距離は短い。でも、歌枕の文知摺石や義経ゆかりの佐藤庄司の旧館を訪ねたりで、充実していたようである。


 福島市街
福島駅

康善寺


福島県庁


板倉神社

BACK 郡山から福島へ

2008410

福島のビジネスホテルを出たのは620分頃。まずJR福島駅に行った。駅前には芭蕉と曾良の銅像があるので、それを見に行ったのだ。
東口駅前広場にたつ銅像を見つけたのだが、なんか見たことがある…、思い出したらそれは「白河関の森公園」で見たものと同じであった。台座のパネルによると平成元年に奥の細道300年を記念して建立したものらしいが、ここには平成17年に移設されたのだそうだ。
駅前には花時計や、銅像があったりしてきれいであった。
福島駅の近くには寺町があるので、少し寄ってみた。安東寺、康善寺に立ち寄って、それから福島県庁に行った。この途中で「経緯度標」というものを見付けた。三角点のようなものなのだ。
県庁に立ち寄ったのは、ここが福島城址でもあるからでだ。ここには戦国時代から城が築かれていて杉目城・大仏城と呼ばれていたのだが、豊臣秀吉の奥州仕置きで木村吉清がここに移ってきて福島城と改称したのだ。でも、文禄4年秀吉の命で福島城は取り壊されてしまう。以後、江戸時代には領主はたびたび変わったが、天守閣が築かれることはなかったのだ。
県庁構内には福島城跡という立派な碑があった。ここには芭蕉の句碑もあるというので構内を探したのだが見つからず、かわりに板垣退助の銅像を見つけ…と思ったら間違いで、河野広中という人の銅像だった。明治・大正の政治家で、自由民権運動へ参加していたのだ。
県庁に隣接して紅葉山公園がある。ここには大仏城跡から出土した宝塔があるので見に行った。公園はいかにも城跡のような雰囲気があって、のんびり散策した。公園を横切ってしまったら阿武隈川のほとりに出た。そこには板倉神社がたっていた。
福島は蒲生氏や上杉氏の支城にすぎなったのだが、延宝7年(1679)に独立した福島藩が成立して、本多・堀田氏を経て元禄15年(1702)からは板倉氏が藩主となり、明治に至るまで板倉氏の統治が続いたのである。この神社は藩祖の板倉重昌が祀られているのだ。板倉重昌は島原の乱で討ち死にしている。




 文知摺石
国道4号線


福島競馬場


文知摺橋を渡る


文知摺石


足止め地蔵


人肌石


観音堂の前にはいろんな石碑がある


正岡子規の句碑


夜泣き石


県庁から国道
4号線に出て、車が行き交う騒々しい道を歩いて行く。でも、これではあまりにも風情がないので、国道に平行する細い道を行くことにした。歩いて行くとすごくりっぱなビルがそびえ立っている。福島競馬場であった。
この先で大きな交差点にぶつかって右折する。東に向かった歩いて行くと阿武隈川を渡った。この橋が文知摺橋であった。私は芭蕉が訪れた「文知摺石」を見に行くのだ。
橋を渡った少し先にY字路があって、右の細い道を行くとその突き当たりが文知摺観音である。
入口には芭蕉の銅像がたっていて、台座には奥の細道の「しのぶの里」の一節が刻まれていた。
境内に入ると左が小高い丘でこの上に観音堂があるのだが、まっすぐに進むと「文知摺石」がある。すぐに二つの石碑がたっていた。左の石碑には大きく二字が刻まれているのだが、なにかしら異様な文字である。説明板によると、甲剛という文字なのだ。甲剛というのは金剛と同じで北斗(北斗七星)を意味するのだという。そしてこの文字は北畠親房の筆になるものらしい。
石碑の後ろが塚のようになっていて、その上に芭蕉の句碑があった。

  早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺

句碑の塚を回り込んだ後ろに文知摺石がある。柵に囲まれた中に苔むした大きな岩がある。
今、目をこらして見てもよくわからないのだが、この石には複雑な文様があったようで、石の上にしのぶ草をおいて絹布をかぶせて、上から平たい石で叩くと草の露で石の文様と草の形が絹布に写されるのだ。この文様の絹布が「しのぶもじずり絹」として都ですごく珍重されたのだ。
文知摺絹の乱れ文様から心の乱れを表す歌枕「しのぶもじずり」となったのだ。
陸奥国の按察使(地方行政官)になった源融は

  みちのくの 信夫もじずり 誰ゆえに
    乱れそめにし 我ならなくに


と詠み、寂然法師は

  みちのくの 忍ぶもぢずり 忍びつつ
    色には出でじ 乱れもぞする


と詠んでいる。歌の世界では文知摺石はかなり有名なようで、そのため芭蕉もわざわざ立ち寄ったというわけである。
文知摺石の後ろには石段があって、これを上ると観音堂があるのだが、その横に石のお地蔵様が立っている。足止め地蔵というらしい。
観音堂は札所文知摺観音で、信達霊場二番札所になっているのだ。観音堂からもう一段上には多宝塔があった。文化9年(1812)に建てられたものだという。多宝塔は関西では多いのだが東北ではこの1棟しかないらしい。
観音堂の前の広場には堀田正虎の顕彰碑がある。江戸時代になると、ここにある巨石が本当に文知摺石かどうか定かでなくなっていたようなのだが、福島領主となった堀田正虎が柵を結いなおしてこの標石を建てたことによって、訪れる人は疑うことがなくなったのだ。
人肌のようなぬくもりを持つという人肌石があった。ほんとかいなと思ってさわってみた。普通の石であった。
この横には小川芋銭の歌碑がある。

  若緑 志のぶの丘に 上り見れば
    人肌石は 雨にぬれいつ


観音堂から石段を下って、この奥に源融と虎御前の墓があるというので行ってみた。源融がお忍びでこの地を訪れたとき、長者の娘の虎女に出会って、二人とも恋に落ちてしまうのだ。源融はこの地に一月余りも逗留してしまったのだが、都からの使いがあって帰らざるを得なくなる。再開を約束して去ったのだが、その後、何の便りもなく、やがて虎女は病となってしまうのだ。その病の床に届けられたのがさっき紹介した源融の歌である。
すぐに正岡子規の句碑があって

  涼しさの 昔をかたれ しのぶ摺

と刻まれている。
この先には夜泣き石があった。大きな石である。

少し行くと源融・虎御前の墓である。十三重の石塔と立派な石碑がたっているのだが、これは最近になってたてられたものであった。がっかりして引き返した。
曾良の日記には虎ヶ清水のメモがあるので、私も行ってみることにした。
境内から出て小川に沿って少し行くと、山の斜面の下に石で囲われた中に水が湧いている。これが虎ヶ清水である。この少し先で山の斜面を見上げると白い標柱が見える。虎女の墓であった。傾きかけた屋根があるのだが、中にある墓石はすごく古くて、さっき見たものよりは遙かに信憑性がある。




 月の輪の渡し
文知摺石からの通


花がきれいに咲いていた


月の輪大橋


瀬の上宿


芭蕉はここから佐藤庄司の旧跡を訪ねている。
芭蕉は源義経の大ファンだったようで、義経の足跡を一生懸命追っかけているようなところがあるのだ。佐藤庄司というのは義経の忠臣であった佐藤継信・忠信兄弟の父親なのだ。佐藤庄司は、平泉の藤原秀衡のもとで信夫・伊達・白河を支配していた地方豪族で佐藤基治のことである。庄司というのは荘園の管理職のことなのだ。

文知摺観音から山沿いに北に歩いて行く。西の平野の中に信夫山が見える。田んぼにはレンゲの花がいっぱい咲いていて、ひどくのどかな気分になってしまう。
天神平というところで左折して阿武隈川を渡った。この橋が月の輪大橋であった。
奥の細道には「月の輪のわたしを越えて、瀬の上と云宿に出づ」と書いてある。昔は渡し船だったのである。月の輪の渡しは大橋のもっと下流にあったららしいのだが、今は舟なんてないのだから、おとなしく橋で渡るしかない。橋の上から下流を眺めると、阿武隈急行線の鉄橋がみえる。この鉄橋のあたりに月の輪の渡しがあったらしい。
月の輪大橋には芭蕉の句が刻まれていて、さらに橋の中程には橋の名前の由来が書いてあった。
橋を渡って、まず北に向かう。これはかって月の輪の渡しがあった方向である。そして阿武隈川に注ぐ摺上川に沿って西に行くと旧奥州街道と交差する。この奥州街道に沿った町並みが瀬の上の宿場である。

宿場を少し歩いて本陣跡を探したが見つからなかった。
細い道を西に歩いて行くと日枝神社があって、そこには寛延二年農民一揆発祥の地という標識がたっていた。その一揆がどんなものだったのか、まったくわからないのだが。
このすぐ先でJR東北本線の踏切を渡って、すぐに新幹線の高架をくぐる。この先は町並みが途切れて果樹園が広がっていた。
東北自動車道の高架を過ぎて、さらに30分ほど果樹園を眺めながら歩いて行くと福島と飯坂温泉を結ぶ電鉄の線路を渡る。この先は左の果樹園の細い道に入って、医王寺を目指す。果樹園から正面の山の中に医王寺の大きな屋根が見えた。



 医王寺
芭蕉坂を上る


医王寺に着いた


芭蕉の句碑


本堂の白壁の塀


医王寺へは鬱蒼とした樹林の細い道を上ることになってしまった。芭蕉坂という名がつけられていた。
ようやく着いた医王寺前の広場は桜が満開であった。
医王寺は天長
3年(826)に空海作の薬師如来像を祀って草堂を建てたことが始まりとされ、平安時代末期に信夫荘司であった佐藤一族が菩提寺としたのである。大鳥城に居城した佐藤基治は、薬師堂を改築して伽藍を整えたのである。
医王寺の山門をくぐるとシラカシの巨木がそびえ立っていた。辻塀がまっすぐに続いていて、その先には薬師堂がある。でも山門を入ったすぐ右に中門があって、中に本堂がたっている。この境内には芭蕉の句碑がたっている。

  笈も太刀も 五月にかざれ 紙幟

本堂から出たその向かいには宝物館瑠璃光殿がある。この中には芭蕉が「笈も太刀も」と詠んだ弁慶の笈や義経の刀が展示されている。
塀に沿った長い参道を行くと右に広場があって、義経と佐藤兄弟の像があった。あまりできがいいとは思えないのだが。
杉木立の参道になるとその少し先に薬師堂がある。平安末期に玄心僧都が勧進して、この鯖野の里にお堂をたてたもので、「鯖野のお薬師さま」とも呼ばれているのだ。
薬師堂の後ろは佐藤一族の墓所となっている。
お堂の後ろには乙和椿があった。樹齢数百年という椿の古木で、つぼみが色づいても、決して花咲くことなく落ちてしまうのだという。これは継信・忠信の二人を失った母乙和の悲しみによるもとの言い伝えられているのだ。句碑があった。

  咲かで落つ 椿よ西の 空かなし

椿の右には墓石や板碑が並んでいる。薬師堂の右手に屋根がかけられて立っているのが佐藤継信・忠信兄弟の墓である。巨大な墓石なのだが、途中折れていて、これを補強するように石板で囲ってあるのだ。この隣には佐藤基治夫妻の墓もあった。奥の細道には「一家の石碑を残す」とあるのはこの墓のことだと思う。また芭蕉は続けて「中にも二人の嫁がしるし…」と書いているのだが、この二人の嫁の墓は今はなくなっているのだ。
この佐藤兄弟の二人の嫁というのは若桜と楓という名前で、二人の息子を亡くした乙和のために、自身の悲しみをこらえて甲冑を身につけて兄弟の凱旋の勇姿を装って慰めたというのだ。その人形が宝物館に飾られていた。



 佐藤庄司の旧宅(大鳥城跡)
果樹園の中を行く


大鳥城への上り口


大手前の分岐



医王寺の拝観を終えて、佐藤庄司(佐藤基治)の屋敷跡である大鳥城に向かった。

医王寺の前から「芭蕉坂」という樹林の間の道を下る。この頃小雨が降り出した。傘をさして果樹園の中を歩いて行き、橋を渡ると城跡への上り口がある。アスファルトの坂道を上がると右に球場があった。この横を過ぎたら、道端に四の砦跡入口という標識があった。
この先で道は二つに分かれる。ここが大手前で、どちらを行っても本丸跡に着けるのだが、私は左の道で本丸に上って、右の道を帰ってくることにした。
緩やかに上って行くと左に東展望広場があって、ここが三の砦跡であった。展望台からは雨のため景色はよく見えなかった。
このすぐ先には東水の手という井戸のようなものがあって、さらに少し上ると一の砦跡。砦跡というのは標識があるだけで、その形跡はまったくないのだ。
すぐに芝生が広がる山頂に着いた。ここが本丸跡である。芝生の向こうには祠と大きな石碑がたっている。
祠の横には大鳥神社という木柱がたっていて、祭神佐藤基治候という標識もある。大きな石碑は大鳥城跡の顕彰碑であった。
本丸から上ってきたのとは別の道を下って行く。すぐに西水の手があった。さらにヘアピンカーブの車道を下って行くと、意外と早く大手前の分岐に戻ることができた。
この下り道からは福島市街の展望がよく見え、果樹園の花もすごくきれいであった。



 飯坂温泉
飯坂の町に入る


常泉寺が見えてきた


鯖湖湯


球場から左の道を下った。ようやく飯坂の町の中に入ると、まず八幡神社があった。辻塀の道を行くと、常泉寺に着いた。正式名称は「巌湯山常泉寺」といって、いかにも温泉町のお寺である。

ここから少しで鯖湖湯についた。板壁のいかにも古い共同風呂である。明治22年に建てられたもので、あの松山の道後温泉のぼっちゃんの湯よりも古いのだ。ただ今の建物は平成5年に改築されたものである。
建物のすぐ前に祠がたつ広場があって、そこには飯坂温泉発祥の地の碑がたっていた。そして、祠は鯖湖神社というのだ。広場には足湯もあった。
鯖湖湯を囲む町のたたずまいがすばらしい。白壁の土蔵や古い大きな看板を掲げた酒屋さんがあったりする。
町の中を東に歩いて行くと川にぶつかる。この川に沿って右に行くと飯坂温泉駅に着いた。駅前の広場には芭蕉の銅像がたっている。
まだ
14時半なので飯坂の観光をしたいのだが、雨が降っているのでイヤになってしまって、早々に電車に乗って帰ることにした。福島だと仙台からは日帰り圏で、なにも重いテントを背負って歩く必要はないので本当にラクだ。次回も日帰りの装備でここから白石まで歩くつもりだ。


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