県庁から国道4号線に出て、車が行き交う騒々しい道を歩いて行く。でも、これではあまりにも風情がないので、国道に平行する細い道を行くことにした。歩いて行くとすごくりっぱなビルがそびえ立っている。福島競馬場であった。
この先で大きな交差点にぶつかって右折する。東に向かった歩いて行くと阿武隈川を渡った。この橋が文知摺橋であった。私は芭蕉が訪れた「文知摺石」を見に行くのだ。
橋を渡った少し先にY字路があって、右の細い道を行くとその突き当たりが文知摺観音である。
入口には芭蕉の銅像がたっていて、台座には奥の細道の「しのぶの里」の一節が刻まれていた。
境内に入ると左が小高い丘でこの上に観音堂があるのだが、まっすぐに進むと「文知摺石」がある。すぐに二つの石碑がたっていた。左の石碑には大きく二字が刻まれているのだが、なにかしら異様な文字である。説明板によると、甲剛という文字なのだ。甲剛というのは金剛と同じで北斗(北斗七星)を意味するのだという。そしてこの文字は北畠親房の筆になるものらしい。
石碑の後ろが塚のようになっていて、その上に芭蕉の句碑があった。
早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺
句碑の塚を回り込んだ後ろに文知摺石がある。柵に囲まれた中に苔むした大きな岩がある。
今、目をこらして見てもよくわからないのだが、この石には複雑な文様があったようで、石の上にしのぶ草をおいて絹布をかぶせて、上から平たい石で叩くと草の露で石の文様と草の形が絹布に写されるのだ。この文様の絹布が「しのぶもじずり絹」として都ですごく珍重されたのだ。
文知摺絹の乱れ文様から心の乱れを表す歌枕「しのぶもじずり」となったのだ。
陸奥国の按察使(地方行政官)になった源融は
みちのくの 信夫もじずり 誰ゆえに
乱れそめにし 我ならなくに
と詠み、寂然法師は
みちのくの 忍ぶもぢずり 忍びつつ
色には出でじ 乱れもぞする
と詠んでいる。歌の世界では文知摺石はかなり有名なようで、そのため芭蕉もわざわざ立ち寄ったというわけである。
文知摺石の後ろには石段があって、これを上ると観音堂があるのだが、その横に石のお地蔵様が立っている。足止め地蔵というらしい。
観音堂は札所文知摺観音で、信達霊場二番札所になっているのだ。観音堂からもう一段上には多宝塔があった。文化9年(1812)に建てられたものだという。多宝塔は関西では多いのだが東北ではこの1棟しかないらしい。
観音堂の前の広場には堀田正虎の顕彰碑がある。江戸時代になると、ここにある巨石が本当に文知摺石かどうか定かでなくなっていたようなのだが、福島領主となった堀田正虎が柵を結いなおしてこの標石を建てたことによって、訪れる人は疑うことがなくなったのだ。
人肌のようなぬくもりを持つという人肌石があった。ほんとかいなと思ってさわってみた。普通の石であった。
この横には小川芋銭の歌碑がある。
若緑 志のぶの丘に 上り見れば
人肌石は 雨にぬれいつ
観音堂から石段を下って、この奥に源融と虎御前の墓があるというので行ってみた。源融がお忍びでこの地を訪れたとき、長者の娘の虎女に出会って、二人とも恋に落ちてしまうのだ。源融はこの地に一月余りも逗留してしまったのだが、都からの使いがあって帰らざるを得なくなる。再開を約束して去ったのだが、その後、何の便りもなく、やがて虎女は病となってしまうのだ。その病の床に届けられたのがさっき紹介した源融の歌である。
すぐに正岡子規の句碑があって
涼しさの 昔をかたれ しのぶ摺
と刻まれている。
この先には夜泣き石があった。大きな石である。
少し行くと源融・虎御前の墓である。十三重の石塔と立派な石碑がたっているのだが、これは最近になってたてられたものであった。がっかりして引き返した。
曾良の日記には虎ヶ清水のメモがあるので、私も行ってみることにした。
境内から出て小川に沿って少し行くと、山の斜面の下に石で囲われた中に水が湧いている。これが虎ヶ清水である。この少し先で山の斜面を見上げると白い標柱が見える。虎女の墓であった。傾きかけた屋根があるのだが、中にある墓石はすごく古くて、さっき見たものよりは遙かに信憑性がある。
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