奥の細道をゆく 
【元禄2年5月1日(太陽暦6月17日)】

郡山→牛ヶ池→奥州街道松並木→蛇骨地蔵堂→安積山→太郎丸観音堂→本宮→安達太良神社→二本松→黒塚→観世寺→ふるさと村→高村智恵子生家→松川→福島 【49km】

芭蕉はこの日、郡山を5時頃に出発して50kmほども歩いて、福島に着いたのは19時頃だったという。私は8時半頃から歩き始めて福島着は21時半であった。芭蕉の健脚にはとても勝てない。



 郡山
郡山駅


355号線を行く

BACK 須賀川から郡山へ

200849(水)

仙台始発の列車に乗ったが、郡山着は823分であった。今日は49kmも歩くのだから、もっと早く郡山を出発したかったが、しかたがない。
今日はデイバックだけの軽い装備である。ともかく荷物は徹底的に削った。いつも持っているステッキもおいてきたのだ。
郡山の駅では、朝食がわりに立ち食いソバを食べたので、出発は845分。今日歩く距離を考えたらゆっくりしてる余裕はないのだが…。
駅前の大通りを歩いて行くと川にぶつかったが、橋がないので左折して県道355号線に出て、それから橋を渡る。355号線は旧奥州街道でけっこう古い家並みが残っていた。藤乃井という酒蔵を過ぎるとお寺が並んでいたりしていかにも古い街道を思わせる。
でも、芭蕉が泊まった当時の郡山宿は小さな宿場で、曾良日記にも「宿はむさかりし」などとかかれているのだ。金森敦子氏の書によると、芭蕉がここを通った20年後でも郡山の人家は52軒しかなかったというから、宿もどんなものだっかか想像がつくというものである。




 安積山
松並木が現れる


日和田の集落


安積山への階段


花かつみ記念植栽


安積山の山頂


歩き始めて
40分ほどのところに本宮まで10kmの道路標識があった。先は遠い。
街並みから抜け出すときれいな松並木が現れた。アカマツの並木で、まだそんなに古いものではない。奥州街道松並木の復元が行われているのだ。松並木を眺めながら行くと「牛ヶ池の碑」があった。このあたりは荒れ果てた原野であったが、文化の頃に開拓を行って現在の田畑ができあがったのだそうで、その記念碑であった。
すぐに県道から左に入って牛ヶ池の集落に入って行く。昔の宿場を思わせるたたずまいが続く。集落を過ぎると藤田川を渡り、さらに陸橋で
JR東北線を越える。県道を歩いて日和田の集落に入ると、ここには蛇骨地蔵堂があるので寄っていくことにした。県道の左の細い道に入ると、正面に古いお堂が見える。屋根は修理中のようでビニールシートがかけられていた。でも、この地蔵堂の歴史は古くて、養老7年(713)に開山され、今の御堂は享保3年(1718)に再建されたのだという。
お堂の前には「西方寺の傘松」が枝を広げていた。郡山市指定記念物のりっぱな松である。

蛇骨地蔵堂から10分ほど歩いて集落を抜けると、右に安積山公園があった。
安積山は万葉や古今和歌に歌われた歌枕の地である。
万葉集には安積采女の

  安積香山 かげさへ見ゆる 山の井に
    浅き心を わが思わなくに


があって、古今和歌集には

  陸奥の あさかの沼の 花かつみ
    かつ見るひとに
恋や渡らん


芭蕉は歌に詠まれた「花かつみ」をここで探したらしいのだが、見つけることはできなかったようである。
石段を上って山の上に出ると芝生の広場になっていて、その山頂には松の木が数本生えていた。ここから遊歩道を下ると、林の斜面に万葉歌碑がたっていた。安積采女の歌碑である。遊歩道を登ってきた道に引き返すと奥の細道の「あさか山」の章が刻まれた碑がたっていた。
郡山市はこの公園に花かつみを植樹しているのだが、それによると花かつみはヒメシャガなのだそうだ。5月に咲く紫色の花である。残念ながら、私の訪ねたこのとき花はまったく咲いていなかった。万葉の歌にある山の井というのは岩清水らしいのだが、これもよくわからなかった。歌枕のあさか山も、今にいたっては丘があるだけなのだ。
芭蕉は安積山のすぐそばにあった安積沼も訪ねたらしいので、私も探してみたがどうしてもわからなかった。曾良の日記にも田畑になってしまっていると書いているのだから、今残っているとはとうてい思えない。標識くらいは立っているだろうと思ったのだが、それも探しだせなかった。




 本宮
高倉集落に入る


村社鹿島神社


太郎丸観音堂


本宮駅


県道をふたたび北に向かって歩いて行くと、すぐに常磐自動車道の高架をくぐる。

再び松並木が続になって、「貴重な文化遺産 奥州街道松並木」の看板がたっていた。
緑の丘陵に沿って道が続くようになると、その途中に灌漑用の池があった。前にたつバス停には「にごり沼」と書いている。なにか由緒のあるものなのだろうか。
丘陵が道際まで迫っくると高倉の集落に入る。この集落には高倉館跡という史跡があるので、注意しながら歩いたが、結局見あたらなかった。「村社鹿島神社」の前で左折して、すぐに五百川を渡る。

15分ほどで仁井田の集落に入り、さらに20分ほど歩くと本宮の町に入った。時間はもう1215分になっているのだが、今日予定の三分の一を歩いたにすぎない。
道端に仙道三十三観音の第四番札所の太郎丸観音堂がたっていた。四国遍路をして以来、札所となると気になってしまう。その狭い境内には供養塔がある。金網の張られた中にあるのはかなり磨耗した碑で、真ん中に阿弥陀像、脇侍に勢至菩薩と観音菩薩が彫られていた。
本宮の町の中に入ったが、だいぶ疲れたのでJRの駅で休むことにした。駅をめざして左の路地に入ったら、すごく古い映画館があった。今はもうやっていないみたいなのだが、私が子供の頃に故郷にあった映画館を思い出してしまった。今はテレビやレンタルで映画を十分観れるのだが、昔は映画が本当に娯楽だった。
JR駅には本宮の名前の由来の説明板があった。平安時代のこの付近は軍馬の産地で、それを「本牧」といったのだ。それがいつしか「本目」ホンモクになって、さらにモトメとなり、ついにモトミヤになったらしい。いずれにしろ、古代の東北は名馬の産地だったのである。
駅前には本宮の史跡巡りのマップの看板もあって、ゆっくり回って見たくなった。でも、今日は福島まで歩かなければいけないのだから先を急ぐしかない。本陣通りという整備された歩道を歩いて安達太良橋を渡る。この川はすぐ先で阿武隈川と合流するのだ。
古い土蔵を眺め、本陣であった明治天皇の行幸跡を見たりして歩いて行くと左に安達太良神社があった。せっかくなので立ち寄ることにした。長い石段を登って境内にたつ。拝殿の天井板には龍の絵があった。 




 二本松
小さな峠を越える


二本松駅


本宮の街を過ぎると、右に丘陵が迫ってくる。
50分ほど歩いて小さな峠を越えると、そこには二本松まで5.5kmの道路標識があった。もう14時になろうというのに、これでは二本松に着くのは16時くらいになりそうである。
ここには「おくの細道自然歩道」の指導標があって、薬師堂を案内していたが、長い階段を登らなければいけないので止めてしまった。
峠から緩やかに下って川を渡り、すぐにJRの線路をくぐる。杉田駅の入口を過ぎて国道4号線を横切ると丘陵の間を歩くようになる。
JR線路に沿って行くと左に古いお堂がたっていた。トタンの屋根が崩れかけた古いお堂なのだが、木登り地蔵という案内板がある。九尾の狐の退治に役立った地蔵を譲り受けてこの地まで運んだのだという。
川を渡って二本松の市街に入る。駅で休憩しようと思うので、県道から離れて線路に沿った細道を歩いていった。駅の近くになると、歩道が整備されて、公園の遊歩道のようになった。二本松駅に着いたのは156分である。




 安達ヶ原
御免町という小さな公園


阿武隈川を渡る


黒塚


境内


ふるさと村


ふるさと村にあった歌碑


駅で少し休憩してから黒塚に向かう。歩いて行くと門だけがたつ小さな庭園公園があった。御免町という標識がたっているのだが、なんなのかよくわからなかった。

国道4号線に合流してから少し行くと立体交差点があって、階段で交差する県道に上がる。この県道は安達ヶ橋で阿武隈川を渡る。広い阿武隈の流れを見ながら歩いて行くと、橋の下に大きな杉の木が立っていて、それを低い塀が囲んでいるのが見えた。これが黒塚であった。私は一度訪れたことがあるのだが、こんなところだったけと思ってしまった。河川敷の中にぽつんと置かれた感じである。
橋から河川敷に下って杉の巨木のの前にたった。根元には黒塚と刻まれた石碑があった。
この「奥州安達ヶ原黒塚」は、奈良時代に紀州熊野の僧、東光坊祐慶が鬼婆を退治して埋葬したところなのだ。
平の兼盛が詠んだ

  みちのくの 安達ヶ原の黒塚に
    鬼こもれりと 聞くはまことか


の句が有名で、その他にも歌舞伎・謡曲・浄瑠璃などで演じられて、すごく有名なのだ。ところが、奥の細道には「黒塚を一見し、福島に宿る」と記すだけで、すごくあっけない。
黒塚の周りには本当に何もなくて、道もぬかるんでいた。
すぐそばに観音寺があるので行ってみた。驚いたことに有料になっていた。(昔は無料だったのだ)
観音寺は鬼婆の菩提を弔った寺で、境内には鬼婆が住んでいたという岩屋が残っているのだ。

境内の真ん中には巨岩が積み重なっていて、これが鬼婆の岩屋である。そして、いたるところに標識が立てられている。鬼婆供養石があって、そこから岩屋の後に回りこむと安堵石があった。岩屋の巨石には南無阿弥陀仏の文字や観音などの仏が線描されていて、これがけっこう素晴らしい。胎内くぐり・祈り石・甲羅石・夜鳴き石などと、標識が乱立していて、無理やり名前をつけたようでもある。最後に笠石というのがあって、巨岩が軒のようにせり出していて、鬼婆の住んだ岩屋だという。
芭蕉休み石というのもあったが、本当だろうかと疑ってしまう。
岩屋の正面には観音堂がたっているので、とりあえずは合掌した。境内に宝物館があるので入ってみた。鬼婆の絵などがあるのだが、内容はたいしたものではない。
15分ほどで拝観を済ませて、外にでると1620分であった。福島まではまだ遠いというのにこんな時間になってしまった。急がなければいけないと思ったのだが、すぐそばには安達が原ふるさと村があるというので立ち寄ることにした。
新しい施設なのだが、人はほとんどいなかった。つい最近までは中に入るのは有料だったらしい。中は広い公園になっていて、五重塔や古い民家・武家屋敷があった。でも、五重塔は京都や奈良でみるような本格的な建築ではなくて鉄筋コンクリートの今風のものである。子供のための遊戯施設もあったがペンキの色がはげていて、これでは人は集まらないだろうと思ってしまう。
句碑があった。奥の細道を歩いていると、つい句碑が気になってしまう。

  阿武隈に 霧立ちくもり 明けぬとも
    君をばやらじ
待てばすべなし


古今和歌集の詠み人知らずの歌である。
ほとんど駆け足のようにしてふるさと村を巡って、急いで阿武隈川を渡った。



 高村智恵子
安達ヶ橋


高村智恵子


智恵子生家


来たときは気がつかなかったのだが、橋の欄干に句が彫られていた。崩した字なので私には読めなかったが「みちのくの
安達が原…」までは読めるのだがあとはなんと書いてあるんだろう。
地図でざっと距離をはかると、福島まではまだ20kmほどありそうだ。時間はもう17時になろうとしている。あと見るべきところはないので、夜道をひたすら歩くしかない。
でも、地図には高村智恵子生家がしるされている。国道から500mほど西に入るだけなので、寄って行くことにした。日が暮れる前にと急いで歩いて行く。細い道をたどり、指導標に導かれて智恵子の生家に着いたのは1710 分であった。生家は酒蔵で、「花霞」という酒の銘柄の看板がかかげられていた。製造元長沼今朝吉と、智恵子の父の名前まで書かれていた。智恵子の生家には隣接して資料館がつくられているのだが、遅いのでもちろ閉まっている。家の前で写真だけ撮った。智恵子の写真もあった。智恵子というのは、日本的なぽっちゃりした顔立ちで今風の美人とはいえないのだが、高村光太郎は大恋愛をしているのだ。
智恵子は明治の頃の人で、美術を志して東京に出てきたのだ。その当時の女子が大学に行くというのはほとんど稀有なおことで、いかにも進んだ女性だったのだ。
私はこの頃の芸術家たちの生き方というのが好きでいろんな本を読んできた。
智恵子抄は大好きで、以前、智恵子抄の詩集を持って、ここを訪れたこともあるのだ。この生家の裏山に、あの有名な「あれが安達太良山、あの光るのが阿武隈川」という詩の展望台があるのだが、今日はそこに上がる時間はとれなかった。



 福島へ
二本柳に着いた


山間の峠を超える


福島市に入った


あとは、福島目指して県道
114号線をひたすら歩く。二本柳の集落に入ったのは1740分、その先丘陵の中を登って行き、山間の峠を越える。この頃完全に真っ暗になってしまった。福島市との境を越えたのは1815分、18時半ころに福島まで12kmの標識があった。今日は福島駅前にあるホテルに、チェックイン18時の予定で予約しているのだが、到着は22時くらいになってしまいそうだ。しかたがないので電話で遅れることを連絡した。でも、まさか歩いているとは思わないだろう。
松川の市街にはいったのは18時半頃。道端には、夜な夜な火の玉となって街中を転回したという「火石」があった。
商店街の中を抜けて、暗い夜道をひたすら歩いて行く。この頃になると疲れはててしまって、何かを見ようとか、そういう気がまったくなくなってしまて、ただひたすら歩くだけであった。暗くて目印になるものがないので、どこまで歩いているのかよくわからない。JRの線路を越えたり、国道を横切ったりすることで、自分の位置が確認できた。
ようやく人家が多くなってきて、福島市街は近いと思ったりするがまだ遠かった。信夫橋を渡ったのは21時であった。この橋を渡ったら本当に福島市街である。
人通りも少なくなった町の中を歩いて行くと、駅前からのびる道に出た。さすがにこのあたりは人通りも多い。駅に向かって真っ直ぐに歩いて行き、途中のコンビニで買出しをした。ネットからプリントしたホテルのマップをにらみながら歩いて、なんとかホテルに着いたのは21時半であった。疲れた。
郡山から歩いてきたといったら驚いていた。


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