歩き始めて40分ほどのところに本宮まで10kmの道路標識があった。先は遠い。
街並みから抜け出すときれいな松並木が現れた。アカマツの並木で、まだそんなに古いものではない。奥州街道松並木の復元が行われているのだ。松並木を眺めながら行くと「牛ヶ池の碑」があった。このあたりは荒れ果てた原野であったが、文化の頃に開拓を行って現在の田畑ができあがったのだそうで、その記念碑であった。
すぐに県道から左に入って牛ヶ池の集落に入って行く。昔の宿場を思わせるたたずまいが続く。集落を過ぎると藤田川を渡り、さらに陸橋でJR東北線を越える。県道を歩いて日和田の集落に入ると、ここには蛇骨地蔵堂があるので寄っていくことにした。県道の左の細い道に入ると、正面に古いお堂が見える。屋根は修理中のようでビニールシートがかけられていた。でも、この地蔵堂の歴史は古くて、養老7年(713)に開山され、今の御堂は享保3年(1718)に再建されたのだという。
お堂の前には「西方寺の傘松」が枝を広げていた。郡山市指定記念物のりっぱな松である。
蛇骨地蔵堂から10分ほど歩いて集落を抜けると、右に安積山公園があった。
安積山は万葉や古今和歌に歌われた歌枕の地である。
万葉集には安積采女の
安積香山 かげさへ見ゆる 山の井に
浅き心を わが思わなくに
があって、古今和歌集には
陸奥の あさかの沼の 花かつみ
かつ見るひとに 恋や渡らん
芭蕉は歌に詠まれた「花かつみ」をここで探したらしいのだが、見つけることはできなかったようである。
石段を上って山の上に出ると芝生の広場になっていて、その山頂には松の木が数本生えていた。ここから遊歩道を下ると、林の斜面に万葉歌碑がたっていた。安積采女の歌碑である。遊歩道を登ってきた道に引き返すと奥の細道の「あさか山」の章が刻まれた碑がたっていた。
郡山市はこの公園に花かつみを植樹しているのだが、それによると花かつみはヒメシャガなのだそうだ。5月に咲く紫色の花である。残念ながら、私の訪ねたこのとき花はまったく咲いていなかった。万葉の歌にある山の井というのは岩清水らしいのだが、これもよくわからなかった。歌枕のあさか山も、今にいたっては丘があるだけなのだ。
芭蕉は安積山のすぐそばにあった安積沼も訪ねたらしいので、私も探してみたがどうしてもわからなかった。曾良の日記にも田畑になってしまっていると書いているのだから、今残っているとはとうてい思えない。標識くらいは立っているだろうと思ったのだが、それも探しだせなかった。
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