奥の細道を往く 
【元禄2年4月4〜15日滞在】(太陽暦5月22日〜6月2日)

大雄寺→芭蕉の道(桃雪亭跡→芭蕉句碑→芭蕉の館→黒羽城跡)→明王寺→常念寺→修験光明寺跡→那須神社→翠桃邸跡→西教寺→犬追物跡→玉藻神社→雲厳寺

芭蕉は黒羽に13泊もして、句会を開いたり名所を巡ったりして、旅の疲れを癒やしているのだ。このとき面倒を見てくれたのが館代の桃雪と桃翠の兄弟で、芭蕉は彼らの宅に泊めてもらったのである。



 黒羽市街へ
黒羽市街に向かう


那珂川を渡る


大雄寺入口の駐車場

BACK 玉生から黒羽へ

2008年4月1日(火)

「道の駅那須与一の郷」から黒羽の市街地までは
3kmほどである。重いザックを、道の駅のインフォーメーションの前において、空身で往復することにした。
芭蕉は黒羽に13泊もしている。黒羽には俳諧を通じて知り合った桃雪(黒羽藩の館代の浄法寺図書高勝)、その弟の翠桃(豊明)がいて、彼らの家に逗留したのである。また黒羽から12kmほど東に雲巌寺があって、芭蕉の参禅の師である仏頂禅師ゆかりの寺なので、わざわざ足を運んでいる。
芭蕉は黒羽に滞在中、句会を開いたり付近の名所をまわったりでのんびりいているのだが、私には芭蕉のように長期滞在させてくれる親切な知り合いはないので、明日にはここを旅立なければいけない。今日中に黒羽市街の主だったところは見ておいて、明日は高久に向かう途中で残りを回るつもりだ。困ってしまうのは雲巌寺で、これを歩いて往復すると一日がかりになってしまう。でも以前、八溝山に登ったときに参拝しているので省略することにした。
道の駅から国道を歩いて行く。道の駅のすぐ隣には那須神社があるのだが、これは明日、ゆっくり参拝することにする。
空身だと歩くのは本当にラクで、30分ほどで黒羽の市街に着くことができた。
緩やかな坂を下って橋を渡る。那珂川ってずいぶん小さな川だと思ったら、道を右折したら大きな橋があった。さっきのは那珂川の支流で、これから渡るのが那珂川なのだ。
古い街並みの中を10分ほど行くと、左に大雄寺の入口があった。



 大雄寺
大雄寺


水琴窟


大雄寺への石段を登って行く。鬱蒼とした杉並木で、両側には苔むした古い石仏や碑が並び、いかにも古刹といった風情がある。

三門の手前には石造りの仁王像がたっている。さらに石段を登って総門の前に着くと、そこには石造りの観音様がたっていた。これは最近のものである。
大雄寺は600年以上の歴史をもつ曹洞宗の禅寺で、黒羽藩主大関家の旦那寺でもあったのだ。
この素晴らしさは、総門や本堂・回廊の屋根が茅葺になっていることである。瓦や銅板葺きの伽藍とはまったく違った雰囲気がある。私は、けっこうこの寺を気にいっているのだ。
境内には水琴窟があって、竹筒に耳を当てると、水の滴る音が澄んだ鈴のように聴こえた。



 芭蕉の道
芭蕉の道入口


こんな門もあった


黒羽城跡の休憩所


大雄寺から北に向かって少し行くと「芭蕉の道」の入口があった。この遊歩道は「芭蕉の館」まで続いていて、途中には芭蕉が逗留した桃雪亭の跡があって、いくつもの句碑がたっているのだ。

入口には
  行く春や 鳥鳴き魚の目は涙
の碑があった。
緩やかな階段の道を上って行くと小さな木戸門があって、その先は公園になっている。その中にある小高い丘に上るとそこには
  山も庭も 動き入るるや 夏座敷
の句碑があった。この公園が旧桃雪邸のようで、それらしき建物がたっていた。
ここから竹林を抜けて進むと芭蕉広場に着く。
  鶴鳴や 其声に芭蕉 やれぬべし
の句碑がある。この少し上には休憩所がたっている。茶屋のような風情のある建物で、休憩したくなったがあんまりゆっくりもできないので先を急ぐ。
芭蕉広場から田んぼや畑の横を通って、けっこう急な階段を上ると芭蕉の館に着いた。
館の広場には馬に乗った芭蕉とそれに従う曾良の銅像がたっている。
この地は黒羽城跡でもあるので、その標識もあった。奥まったところには奥の細道の「那須野」の章を刻んだ石碑がおかれている。どこも芭蕉だらけである。

せっかくなので、芭蕉の館に入って中の展示を見た。
帰りは車道を戻ったのだが、その途中には黒羽城跡という標識のたつ休憩施設が設けられていて、そこには芭蕉の句碑
  田や麦や 中にも夏の ほととぎす
があった。



行く春や 鳥啼き魚の 目は泪

山も庭も 動き入るるや 夏座敷

鶴鳴や 其声に芭蕉 やれぬべし

田や麦や 中にも夏の ほととぎす



 黒羽西郊外
遊歩道として整備されている


那珂川を遊歩道橋で渡る


明王寺


奥の細道の指導標


修験光明寺跡への踏み跡


大雄寺の前を過ぎて、左に小学校を見て歩いて行く。車道なのだが、歩道はきちんと整備されていて歩きやすい。右の道に入って歩行者専用の橋で那珂川を渡った。橋は最近架けられた新しいもので、途中には川を眺めるテラスも設けられていた。

T字路に出て北に向かう。まず明王寺に行ってみた。
黒羽の街の中には主要な名所に句碑がたてられていて、その前にはスタンプを納めたポストが設けられているのだ。芭蕉がこの明王寺に来たことはないようなのだが、
  今日もまた 朝日を拝む 石の上
という句碑が置かれていた。この句は、芭蕉が黒羽で開いた句会の中で披露されたものである。
来た道を引き返して常念寺に行く。
この寺の境内には桃雪がたてたという句碑があるのだ。ただし、本当に桃雪がたてたかは疑わしいようだ。刻まれているのは
  野を横に 馬牽むけよ ほととぎす
つぎに目指すのは修験光明寺である。奥の細道に「修験光明寺と云有、そこにまねかれて、行者堂を拝す」とかかれているので、芭蕉が訪れたことは間違いない。
常念寺から修験光明寺までは1.5kmほどで、道の駅への帰り道にある。
指導標に従って路地のようなほそい道を歩いて行く。街から抜け出すと一面の田んぼで、ほんとうにこの道でいいのかと思いながら、二万五千分の一の地図と首ったけで歩いて行った。
ようやく光明寺跡の標識のたつところに着いたのだが、指導標は藪の中を指している。どこだ、と思ってあたりを見回したがそれらしきものはない。指導標の方向をよく見ると、かすかな踏み跡が椿が茂る藪の中に続いていた。本当にこの道でいいのかと半信半疑で踏み跡を辿ると、少し上がったところに説明板がたっていた。修験光明寺は跡形もなくなってて、礎石すら見ることはできなかった。

ここには奥の細道に登載されている
  夏山に 足駄を拝む 首途哉
の句碑があった。
あとは道の駅に戻るだけである。光明寺跡から5分ほど西に歩くと大きな車道に出る。明日はこの道を北に向かって高久を目指すのだ。このT字路には白旗城跡の案内板があったが、その方向を見ても城跡らしきものは見えなかった。この城跡の案内板のすぐ隣には奥の細道の説明板のある小広場があった。ここから少し北に翠桃宅跡があるそうだが、芭蕉はこの翠桃宅を基点に黒羽の名所を巡ったと書いてあった。
でも、翠桃宅跡は明日に行くことにして、道の駅に急いで戻ることにする。道の駅のインフォーメーションは18時で閉鎖されてしまうので、その前に戻らないとザックが回収できなくなってしまう。
急いだかいがあって、
1745分には道の駅に戻れた。
道の駅のどこにテントを張ろうかと探したらバス停があったので、そのベンチの前にテントを張った。





 那須神社
道の駅のバス停にテントを張った


那須神社の参道


那須神社の楼門


関東ふれあいの道の指導標があった


参道入り口にあった

200842日(水)

今日は真っ青な空が広がる快晴である。6時半に起きてテントを撤収。
芭蕉は黒羽に13泊して14日目に高久に向かったのだ。黒羽から高久までは18kmで、そのうちの半分は馬で行ったらしい。黒羽藩の城代家老の桃雪が馬をつけてくれたのだ。
馬を使ったのに18kmというのは一日の歩行距離としてはずいぶん短い。翌日も高久から那須湯元温泉までは17kmなので、時間調整でもしたのかと思ってしまう。中途半端なので、私は今日一日で那須湯元まで行ってしまうことにした。(これは無謀だった。)

道の駅からは一旦、黒羽に向かうのだが、その前に那須神社に参拝することにした。国道から杉並木の長い参道が続いている。小さな石橋を渡ると赤い楼門がたっている。二階の欄干の上には八幡宮とかかれた額がかかっていて、その八という字は鳩が向かい合ったものである。これと同じものを鎌倉の鶴岡八幡宮で見たのを思い出した。鳩は八幡宮の守り神だからだと思うのだが、どこの八幡宮もこうなっているわけではない。
この神社は源義家の寄進で、那須家代々の鎮守だったという。那須与一は屋島で平氏の女官が掲げる扇をみごと射落として有名なのだが、そのとき「氏神那須大明神」と祈った神がこの神社なのだという。

那須与一というのは通称名で、実名は那須宗隆というらしいが、吾妻鏡などの史書に那須与一の名前は出てこないため、学問的には実在を確認されていないのだ。
那須神社の楼門は鮮やかに彩色されていて、栃木県の文化財となっている。門の両側には随神像があるのだが、昔は仁王像であったらしい。
門をくぐると正面に本殿があるのだが、こちらは白木のひどく質素なものだった。天正5年(1577)の建造で、その後寛永18年(1641)に大改修されたのだそうだ。とてもそんな古いものとは思えないのだが…。
本殿の前に風格のある石灯籠がたっている。これは寛永の大改修のときに黒羽城主大関土佐守が寄進したものだという。いかにも古いものでこれは本物のような気がする。大関氏はこの石灯篭と一緒に水屋の手水船も寄進していて、楼門を出て国道に戻る途中でこの手水船に気がついた。

参道から国道に出たところには「関東ふれあいの道自然歩道」の指導標がたっていた。私はこの自然歩道も歩くつもりでいるのだが、知るかぎりではこのあたりに自然歩道のコースはないはずなのだ。不思議であった。




 翠桃邸跡と西教寺
翠桃邸跡の入口


翠桃邸跡


西教寺本堂


国道
401号線にもどって、10分ほど歩くと左折する。昨日歩いた道で、これを北に向かう。
広々とした田んぼの中を
20分ほど行くと、民家の間に「鹿子畑翠桃邸跡入口」という標識があった。家の間の細い道を行き、右折すると田んぼの中に墓石がいくつもならんでいた。ここが翠桃邸跡と墓地である。芭蕉は黒羽では桃雪と翠桃の兄弟の家に交互に泊めてもらっているのだ。
芭蕉はここで歌仙を興行したようで、それが曾良日記に残されている。
   秣おふ 人を枝折(しおり)の 夏野哉 (芭蕉)
  青き覆盆子(いちご)こぼす
椎の葉 (翠桃)

以下36句が続く。
私は歌仙や連歌についてはまったく知らないのだが、575の長句と77の短句を交互に詠みあうのが連歌で、歌仙というのは36歌仙にちなんで連歌を36句交互に詠みあうことらしい。芭蕉は各地で歌仙を行っているのだが、興行という言葉がつかわれるのは、なにかしら有料のコンサートみたいだ。でも、地方の俳諧をたしなむ人にとっては高名な俳諧師とともに歌仙に連なるというのはものすごく名誉なことだったらしい。
県道に戻って少し行くと西教寺である。境内には親鸞の銅像がたっていたが、本堂はごく質素なものであった。私は境内にある芭蕉の句碑を見に来たのだ。
  かさねとは 八重撫子の 名成るべし
という曾良の句が刻まれていた。でも、この西教寺が芭蕉とどんな縁があったのかはわからない。ここに立つ句碑はもともとは町役場の広場にあったらしい。
いかにも那須野というにふさわしい広大な平野のなかを県道は北に伸びていた。




 犬追物跡と玉藻稲荷
指導標のたつ十字路


玉藻稲成神社の入口


湿地に水芭蕉が咲いていた


鏡ヶ池


狐塚祠


実朝の歌碑


西教寺から
20分ほどで指導標のたつ十字路に着いて、右・犬追物跡 1.0km、左・玉藻稲荷神社1.3kmとなっていた。まず犬追物跡に向かった。田んぼには水が張られ始めていて、それが池のように見えた。
15分ほどで犬追物跡に着いたが、看板があるだけなのだ。その後には雑木林が広がっていので、なにか遺跡の痕跡はないのかと探したが、何もなかった。そもそも犬追物っていったいナンナノダと思うのだが、その説明板によると、犬を狐にみたてて追い射る武技を行った跡なのだそうだ。ではどうして犬追物が必要になったかというと、九尾の狐伝説がからんでくる。平安初期、インド・中国を荒らしまわった九尾の狐が日本に飛来して、玉藻の前という絶世の美女に化身して帝の寵愛を受けるようになったのだが、陰陽師安倍泰成によって正体を見破られて、この那須野に逃れてきたのだという。これを討てという勅命をいただいた上総介広常と三浦介義純はここで狐を討つためのトレーニングしたということらしい。看板を読んでなるほどと思ってしまうのだが、でも、その跡らしきものは何もないのだ。奥の細道には、芭蕉がこの犬追物を見た後で玉藻の前の古墳を訪れたと書いてあるのだが、その当時も雑木林しかなかったのだろうか。
芭蕉はこの九尾の狐伝説がけっこう好きだったようで、犬追物から玉藻の前の神社を尋ねて、さらに那須湯本の殺生石を見物いるのだ。
玉藻稲荷神社に向かう。
2.5kmほどあるので40分もかかってしまう。引き返して、今朝右折した交差点を直進して西に歩いて行く。途中道を間違えたりしたが、なんとか玉藻神社参道入口に着いた。稲荷神社らしい朱の鳥居がたっていた。杉林の参道をゆくと石の鳥居の前に広場がある。ベンチも置かれているので、ここで休憩。水芭蕉も咲く閑静な境内であった。
この広場から社殿に向かって上る石段の左には源実朝の歌碑がたっていた。実朝は源頼朝の次男で第三代征夷代将軍になったのだが、28歳で暗殺されてしまう。この実朝は政治家としてはほとんど無能で、北条氏の傀儡として将軍になったのだ。頼朝は極めて優れた政治家だったが、冷酷でもあった。平家討伐に抜群の功績のあった義経を、弟でありながら平気で討伐してしまうのだ。だからこそ武家の政権を打ち立てることができたのだが、因果応報でその子孫はこの実朝で断絶してしまうのだ。以後、幕府将軍は京都の公家から迎えて、政治の実権は北条に握られてしまう。
ここにたつ実朝の歌碑には
  ものヽふの 矢並つくろふ 小手の上に
          霰たばしる 那須の篠原

この玉藻稲荷神社のあたり一帯が、歌枕の那須の篠原なのだ。
正面にたつ赤く塗られた社殿に向かって石の鳥居をくぐると、石段前の右には芭蕉の句碑がたっている。
  秣負ふ 人を枝折の 夏野哉
この句は翠桃邸で歌仙を興行したときの芭蕉の句である。
広場の右にはほとんど水が涸れかかった「鏡池」があった。九尾の狐を追跡した三浦介義明はこの池の付近で姿を失ってしまったのだが、蝉に化けている正体がこの池にうつったので退治することができたのだ。
池の横の踏み跡を辿ると「狐塚祠」がたっている。芭蕉は「玉藻の前の古墳」を訪れたと書いているので、古墳=塚で、この狐塚祠のことだと思っていたのだが、帰ってから調べたら狐塚址はここから北東の県道沿いにあったことがわかった。見逃してしまった。
社殿に手を合わせてから引き返した。





今日も又 朝日を拝む 石の上

野を横に 馬牽きむけよ ほとゝぎす

夏山に 下駄を拝む 首途哉



 雲厳寺
雲厳寺仏殿と本堂


伽藍を見下ろす


2002年3月17日

私が雲厳寺を訪れたのは、奥の細道を歩いた2008年ではなくて2002年のことで、日本三百名山の八溝山に登った帰りのことである。黒羽から雲厳寺までは往復25kmもあるので、とても歩く気がしなかったのだ。
2002年に撮った写真で紹介するのでご容赦いただきたい。
雲厳寺は臨済宗妙心寺派の寺院で、大治年間(
11261131)に開基されたというが、開山は仏国国師によって弘安6年(1283)になされたという。開基と開山とどう違うのだ…と思ってしまうのだ。
芭蕉がこの寺を訪れたのは仏頂和尚の山居跡を訪ねるためだったという。芭蕉は深川の臨川寺で、ちょうど滞在していた仏頂和尚に禅を学んだことがあったのだ。
仏頂和尚の山居跡は本堂の裏にあるのだが、立入禁止で近づくことはできない。


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