奥の細道をゆく
【元禄2年4月2日】(太陽暦5月20日)

日光→神橋→裏見の滝→日光 【11km】
日光→含満ヶ淵→大猷院→二荒山神社→東照宮→輪王寺

芭蕉が日光に泊まったのは30日と書いているのだが、曾良日記によると4月1日が正しいのだ。芭蕉は着いた当日に東照宮を参拝して、翌日裏見の滝と含満ヶ淵を見物したのだ。私は日光に着いた日に裏見の滝を往復し、翌日東照宮を見物したので芭蕉とは逆になってしまった。



 日光の街
大谷川を渡る


私が泊まった「日光パークロッジ」


神橋が見えてきた


お土産やさんの並ぶ道を行く


BACK 鹿沼から日光へ

2008年3月30日(日)

今日はテントではなく、「日光パークロッジ」というちゃんとした宿泊施設に泊まるのだ。日光のような観光地ではテントをはるような場所はないだろうし、無理してテントを張ったら不審者としてお巡りさんに捕まってしまうかもしれない。

東武日光駅の少し先で右折して大谷川を渡る。大谷川と書いてダイヤガワと読むのだ。ダイヤモンドの川かと思ってしまった。橋を渡ったところで広い道が交差する。左に行くと東照宮に行けるのだが、私はまず今夜の宿泊先日光パークロッジに行って荷物を預けてから出かけるつもりだ。ともかくこの重いザックから解放されたいのだ。
芭蕉が日光に着いたのは12時くらいで、その日のうちに東照宮を参拝したらしい。でも、私は今日中に東照宮を見ることはできそうもない。もう15時になろうとしているのに、東照宮の拝観は16時までなのだ。明日にするしかないのだが、芭蕉は翌日に裏見の滝と含満ヶ淵に出かけているので、私は今日、この二つを見ておこうと思う。
橋を渡ってから真っ直ぐに山に向かって上って行くと、パークロッジの案内標識があった。これに従って左折したが、けっこう遠かった。ずいぶん山の上にあるのだ。
パークロッジに着いたのは1510分で、チェックインせずに荷物だけ預けて出かけた。急いでいたのだが、空が曇ってきているのに傘を持たなかったのは失敗だった。
山の上を歩いて、カンだけでなんとか神橋の前に着くことができた。15時半を過ぎていた。
神橋から裏見の滝の入り口までは4kmほどで、入り口からさらに2kmほど山に向かって上って行かなければいけない。暗くなる前に着けるか心配になってきた。でも、重いザックから解放されて、空身で行くのだからなんとかなるだろう。
赤い神橋とその下の蒼い流れを見て広い道を行く。この道は日光いろは坂へ続いているのだ。お土産屋さんの立ち並ぶ国道を必死で歩き続けて、裏見の滝の入り口に着いたのは1610分であった。やっぱり空身だと速い。




 裏見の滝
裏見の滝の駐車場


登山みたいな道を行く


裏見の滝が見えてきた



バスで帰った


細い車道を緩やかに登って行くと、時々雨がぱらつく。あわてて傘を持ってこなかったことを悔やんだ。。

ダラダラと上り続けて、車道の終点の駐車場に着いたのは1640分。ここからは階段の遊歩道になる。遊歩道入り口には裏見の滝まで500mという指導標がたっていた。登りがきついと30分くらいかかりそうだ。
急な階段を上って行くとすぐに傾斜は緩やかになった。
平らになった遊歩道を行くと、左に岩の間を流れ落ちる幅広の滝が見えてきた。これが裏見の滝かと思ったらそうではないかった。でも、この滝が変わっているのは、滝の上部に流れはなくて、岩の間から湧き出た水が滝を作っているのだ。これはこれですごい滝だと思ってしまう。
山襞を左から回りこむと行く手に二本の滝が見えた。これが裏見の滝であった。木の階段を上って滝のすぐ近くまで行く。終点は展望台になっていて、ここからよく見ると、絶壁につけられた道らしきものが滝に続いている。最近、崩落があって滝の裏に回ることはできないのだが、芭蕉はこの道で滝の裏に入ったのだ。
芭蕉はここで

  暫時は 滝に籠るや 夏の初
   (しばらくは
たきにこもるや げのはじめ)

という句を残している。
裏見の滝は高さ19m、幅2mほどでやや小さな滝なのだが、迫力は十分である。芭蕉と同じように滝の裏に入ることができたら、もっとすばらしいのだろうと思うのだが。
時間はもう1650分になっているので、写真を撮ってあわてて引き返す。もちろん観光客は私一人だけであった。
帰りは霧雨になった。傘はないので濡れて行くしかないのだが、そんなに濡れるほどの雨ではなかった。帰りは含満ヶ淵に寄るつもりだったが、雨だし、暗くもなってきたのであきらめて、バスで帰ることにした。
バスで東武日光駅まで行って、近くのコンビにで夜食を買い込んで、それからパークロッジに向かった。



 含満ヶ渕
ふるさとの家


赤い橋が歩道橋


参道を行く


山門がある


石仏が並ぶ


含満ヶ渕


化け地蔵


3
31日(月)

今日はまず日光の観光から始める。松尾芭蕉は日光に着いた当日に東照宮を見ているのだが、私は翌日になってしまった。
東照宮の拝観受付は9時からなので、まず含満ヶ淵に行ってそれから東照宮を見ることにした。
昨日とは違う道で含満ヶ淵に向かう。泊まったパークロッジは「日光木彫りの里工芸センター」の公園が隣接していて、この中を下って大谷川の北岸の県道に出た。県道を歩いて行くと川を渡る歩道橋がある。渡ったところに「小杉放篭記念日光美術館」があって、この横を下ると神橋の前である。
含満ヶ淵は日光総合会館の200mほど手前で左の細い道に入り、大谷川沿いに歩いて行くのだ。含満橋を渡ると遊歩道がつけられていて、その突き当りには駐車場があった。この先は含満公園で、遊歩道を歩いて行くと「西町太子堂」があった。赤く塗られた小さな社である。聖徳太子といったら奈良斑鳩だと思うのだが、太子信仰が全国的に高まった時代があって、そのときに建てられたものらしい。
遊歩道の行き着いた正面には小さな山門がある。この山門の横に立派な石碑がたっているので、正面にまわってよく見たら大正天皇の御製の歌碑であった。芭蕉を追って歩いていると歌碑には敏感になってしまう。大正天皇は日光がお気に入りだったみたいで、延べ千余日も日光に滞在しているのだそうだ。
その句は


  衣手も しぶきにぬれて 大谷川
   月夜涼しく 岸づたいせり


山門をくぐって慈雲寺の境内に入る。慈雲寺というのは承応3年(1654)に晃海大僧正が創建したもので、阿弥陀如来と天海を祀った寺なのだ。天海という僧は徳川家康の政治的顧問をしていて、日本のラスプーチンとも云われる怪僧である。亡くなったときは100歳を越えていたといわれる。
山門をくぐったすぐ先に御堂がたっているが、これは昭和
48年に再建されたものなのだ。
苔むした石塔といくつも並ぶ地蔵坐像の間を行く。今日はあいにくの雨なので、私の他に人影はない。
展望が開けて、巨岩の上に東屋がたつそばに着いた。この東屋が霊比閣だと思うので行ってみようとしたが、路岩の上にあるので踏み跡がよくわからない。しかも岩は濡れて滑りやすくて少し苦労してしまった。東屋の真ん中には礎石が残っている。かっての霊比閣は流されてしまっていて、礎石だけ残っていたのを最近になってこの東屋を復元した。
ここからは岩を噛んで流れるすばらしい含満ヶ淵の渓流を見ることができる。よく見ると対岸の岩壁には梵字が刻まれている。これは不動明王を表す梵字なのだが、弘法大師が筆を投げつけて刻んだという伝説がある。でも、実際はこの寺を開いた晃海が刻ませたものである。空海と晃海はよく似ているから、どこかで混同してしまったのだろう。
この御堂の先で小さな石橋を渡ると何体もの地蔵坐像が並んでいる。これが有名な「化け地蔵」である。天海の弟子百人が寄進したものだが、参拝者がこの地蔵の数を数えるとその都度、数が違ってしまうのだそうだ。そのため化け地蔵と呼ばれるのだ。
この化け地蔵の入口の左に石段があるので、何があるのかと上ってみたら、日光山輪王寺の歴代住職の墓所であった。すぐにひき返した。
化け地蔵は苔に覆われて整然と並んでいる。雨がしょぼ降る中、観光客は私一人で、本当にお化けが出たらどうしようと思ってしまう。
もう時間はもうすぐ8時になるので、急いで東照宮に向かった。
地図を見ながら東照宮に向かって歩いて行く。路地のような狭い道なのにあちこちに親切な案内標識がたっていて、おかげで迷うことなく国道に戻ることができた。


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