奥の細道をゆく 
【元禄2年4月1日】(太陽暦5月19日)

鹿沼→御成橋→杉並木寄進碑→追分地蔵→今市宿→日光杉並木→杉並木広場→JR日光駅 【29km】

芭蕉が日光に着いたのは12時頃で、午後は日光の観光をしているのだ。私もかなり頑張って歩いたのだが、日光到着は14時半を過ぎてしまった。芭蕉ってどんなに足が速かったんだ。


 鹿沼
ここにテントを張った


今市まで18km


BACK 小山から鹿沼へ

2008330日(日)

5時半頃、河川敷を散歩する人の足音が聞こえるようになったので、起きてテントの撤収をする。
今日の日光までの行程は28kmで比較的短い。早く日光に着いて、今日中に観光をしたいと思っている。
黒川に沿って歩いて行き、御成橋で黒川を渡る。すぐに道路標識があって、今市まで18kmと書かれていた。5時間以上かかりそうだ。
道を行くと大きな倉庫がたっていた、そこには御成橋町屋台蔵とかかれている。鹿沼では祇園祭りのような屋台を引く祭りがあるらしい。昨夜テントを張ろうと思って行った「屋台のまち中央公園」にあったのも屋台蔵だった。鹿沼に近い小山に住んでいたのだが、この祭りのことは知らなかった。




 鹿沼〜今市の杉並木
ロマンチック街道が始まる


一里塚

文挟駅


草茫々になったりする


少し行くと杉並木があって、「日光ロマンチック街道」という標識があった。日光への道は杉並木が続くのだ。

高くそびえる杉林を見ながら行くと、「杉並木寄進碑」があった。松平正綱が杉並木を植栽して東照宮に寄進したという石碑なのである。この杉並木は特別史跡であり、特別記念物に指定されているのだ。
日光の杉並木といったら、今市から日光の間のものが有名なのだが、この鹿沼・今市間もなかなかのものである。

ただ杉並木を歩いていて困ることがある。両側が塀のように高くなっているのに歩道部分がないため、車が来るとすごく怖いのだ。でも、杉並木の外側に踏み跡を見つけた。土の道が続いて、アスファルト道に参っていた私にはすごく快適な道であった。
杉並木の外の歩道を行くこんもりとした盛り上がりがあって、それは一里塚であった。道の向こう側にも同じ盛り上がりがある。一里塚というのは道の両側に築かれるものなのだ。

一里塚から30分ほど行くと文挟の駅に着いた。このすぐ先で右から合流してくる道があって、そこに立つ杉の巨木のもとに古い石標がたっていた。いかにも昔の街道を思わせるものであった。私はこんなものが大好きなのだ。
鬱蒼とした杉並木が続く。車道歩きはできないので、杉並木の外側の踏み跡を行くのだが、困ったことに時々その踏み跡が藪に覆われてしまったりする。
10時少し前に上板橋の集落に入った。道路標識には今市まで7kmと書かれていた。この調子だと今市に着くのは12時である。この集落には本陣跡があるというので、注意しながら歩いたが結局見つけることはできなかった。
集落を出ると道は左にカーブして、鬱蒼とした杉並木の中に入る。歩道がないので車道を歩いて行く。道の両側は高い土手になっていて、車が来るとちょっと怖い。
すぐに例幣使街道宝瀬一里塚があった。塚の上には杉の巨木が生えていた。

できるだけ車道の外に踏み跡を見つけて歩いて行くのだが、時々踏み跡が途切れて車道に戻ったりする。藪を掻き分けて歩くことも少なくない。




 今市宿
踏切を渡る


追分地蔵




JR
日光線の踏切を渡ったのは12時であった。今市は近いはずだ。
10分ほど行くと日光街道と合流するが、その交差点には「追分地蔵」がある。小さなお地蔵様がたっているだけと思っていたのだが、そこには大きなお堂があって、中に鎮座する地蔵坐像も大きく立派なものであった。
ここで左折して今市の市街に入って行く。日光街道は今市の商店街の中を行くのだ。左に清酒清開の酒蔵があって、少し行ったところに「今市のおいしい水」という水場があった。商店街のど真ん中にこんなものがあるとは驚きで、「おいしい水の由来」の説明板までたっていた。もちろん飲んでみた。たしかに美味しかった。
商店街を行くと、再びおいしい水があって、その前にベンチがあったので休憩することにした。荷物を相当軽くしたのに、やっぱり足が痛くてたまらない。靴を脱いでベンチの上に足を伸ばしてほっと一息。ここには水もあるので、ラーメンを作って食べることにした。時間はちょうど12時を過ぎた頃だった。
ベンチの上でお湯を沸かしていると、商店街を通る人に、いかにも不審そうに見られて恥ずかしかった。
お腹も膨れたので、日光に向かって出発。すぐに日光まで7kmの道路標識があった。順調に行ったら15時には着けそうである。




 日光杉並木
再び杉並木が続く


杉並木鑑賞広場


一里塚


前に鐘が置かれたお堂


大谷川を渡る


街を外れると左に滝尾神社があって、そこからはりっぱな杉並木が続いていた。右には上今市駅があったので立ち寄ってみた。駅の前は公園としてきれいに整備されていて、二連の水車があったり、「朝鮮通信使今市客館跡」の石碑が立っていた。江戸時代に朝鮮との国交があったことは知っていたが、それが日光までやってきていたとは知らなかった。でもそれは江戸時代初期の頃に三度だけだったらしい。奥に進むと「杉並木鑑賞広場」があって、そこから杉並木の道に出ることができた。

鬱蒼とした杉の巨木が立ち並ぶ。車道はこの道の左にあって、分離されているので安心して歩いて行くことができる。
10分ほど行くと瀬川の一里塚があった。日光街道は江戸から日光まで36里ほどなのだが、ここは34里めの一里塚である。日光まではもうすぐだ、がんばらなくては。
一里塚のすぐ先に杉並木公園があって、観光客がたくさんいた。公園内には古い民家が移築されていて、広場には現代的な彫刻がおかれていたりする。さっき上今市駅でみた公園からここまで遊歩道が続いているらしい。
人も多いので、先を急ぐことにした。
りっぱな杉並木の中に「砲弾打ち込み杉」という標識がたっていた。明治戊辰戦争のとき、官軍が幕府軍との前哨戦をしたとき砲弾が打ち込まれて、その痕が杉に残っているのだ。
杉並木を歩き初めて40分ほどのところにお堂がたっていた。その前には石仏が並んでいる。このあたりの石仏には半跏思唯像が多いような気がする。指を頬に当てて考えているような観音像で如意輪観音ではないかと思う。
さらに歩いて行くと、ひときわ立派な見上げるような巨木があって、それには並木太郎という名前がつけられていた。さらに7分ほど行くと、今度は「銀杏杉」があった。根の張った様子が銀杏のようなのだ。
1430分、杉並木の中の歩道が車道に合流するとJR日光駅に着いた。JRの駅はいかにも古風な感じですてきな建物なのだが、人はほとんどいなかった。ここから少し行くと東武日光駅で、こちらはにぎやかである。
今日はテントではなく、「日光パークロッジ」というちゃんとした宿泊施設に泊まるのだ。日光のような観光地ではテントをはるような場所はないだろうし、無理してテントを張ったら不審者としてお巡りさんに捕まってしまうかもしれない。
東武日光駅の少し先で右折して大谷川を渡る。大谷川と書いてダイヤガワと読むのだ。ダイヤモンドの川かと思ってしまった。橋を渡ったところで広い道と交差する。左に行くと東照宮に行けるのだが、私はまず今夜の宿泊先日光パークロッジに行って荷物を預けてから出かけるつもりだ。ともかくこの重いザックから解放されたいのだ。


NEXT 裏見の滝・含満ヶ渕

BACK 奥の細道をゆく






My日本の道  My日本の山  日本の旅  私の写真館  自己紹介






inserted by FC2 system