那智大社→仁王門→大門坂(唐斗石→楠の巨木→多富気王子→鏡石→夫婦杉)→お杉社→市野々王子→尼将軍供養塔→川関の庚申碑→補陀洛寺→平維盛の供養塔→熊野三社大神社→浜の宮王子→振分石→JR那智駅

那智大社からJR那智駅に向かう大門坂は熊野古道を代表するコースである。浜の王子に着くと、ここには中辺路・伊勢路・大辺路の合流点を示す振分石があるのだ。
大門坂の夫婦杉付近



急な石段を下る


おみやげ屋さんの間を行く


多富気王子


大門坂入口の石碑
 大門坂と多富気王子

BACK 大雲取越えから那智大社へ

2010年3月22日

那智大社から急な石段を下って行く。楼門をくぐって振り返ると両側に仁王様がたっている。私は那智大社の神門と思っていたのだが、青岸渡寺の門なのだ。
仁王門から下ると朱の鳥居がたっている。鳥居の額には「那智山熊野権現」と書かれている。この参道はお寺のものなのだが、同時に神社のものでもあるのだ。
大きな朱の鳥居をくぐると、そこからはお土産屋さんが並ぶ参道である。突き当たりで右折すると、すぐに左に下って行く細い道がある。これが大門坂の入り口である。大門坂の石段道には杉の巨木がそびえ立っていて、すばらしい参道である。
杉の巨木の写真を何枚も撮りながら下って行くと、下に平安時代の衣装の女性が歩いているのが見えた。観光客のための貸し衣装なのだが、この参道ではすごくよくあっている。
樹齢800年という楠の大木もあって、うれしくなってしまう。
この石段の途中に多富気王子跡があった。王子跡は小雲越・大雲取越にはなかったので久しぶりである。しかも、あの青い説明板もたっていた。
ここから少し下ったところには夫婦杉の巨木がそびえ立っている。この下で、また平安衣装の女性を見かけた。
夫婦杉を過ぎると、杉並木は終わって、赤い橋を渡る。すぐに石の鳥居をくぐったところには新宮藩の関所跡があった。十一文関とも書かれていた。
アスファルトの坂道を下って行くと、車道に合流する。そこには大門坂という大きな石標があって、さらに熊野古道という標石もあった。



 市野々王子から尼将軍供養塔へ

村社王子神社(市野々王子)


尼将軍参道碑がたっていた


尼将軍供養塔


ここからは車道歩きかと思ったら、すぐに左の集落の中に入った。集落の中で川を渡ったが、この川は那智の滝から流れ落ちた那智川なのだ。
民家の間を歩いて行くと「お杉社」があった。石垣に囲まれた広場があるのだが、社殿はなくて石組みだけが残っていた。この石垣に囲まれた境内には「影向石」や、庚申碑がたっていた。
学校を過ぎて少し行くと、左に市野々王子社があった。けっこうりっぱな神社で、参道入口にはいつもの青い説明板がたっていた。
10分ほど行くと、左に「尼将軍参道碑」という立派な石標がたっていた。この標識に従って坂道を上って行く。途中から振り返ると、市野々の集落が一望できた。
車道から標石に従って石段を上ると、墓地の中に入って、そこに古い石塔がいくつも並んでいる。これが尼将軍の供養塔かと思ったらそうではなかった。尼将軍の廟所を守っていた人たちの墓で、散らばっていた墓石を集めて、ここに新しく祀り直したようである。
ここからさらに指導標に従って歩いて行くと、鬱蒼とした樹林の中に入って、道もすごく細いものになった。本当にこの道でいいのかと心配になってしまったが、左に広場が見えてきて、その奥に石垣で築かれた基壇が見える。この基壇の上の社が尼将軍の供養塔であった。
尼将軍北条政子の霊を祀っているのかと思ったらそうではなくて、政子が熊野三山詣をしたときに、我が子の供養のためにたてたものなのだ。
宝筺印塔が二基たっていた。



 補陀洛寺

沼のようになっていた


那智川の土手を行く


補陀洛寺本堂


ここからは鬱蒼とした杉林の中を行く。道は沢筋にそって続いているのだが、ぬかるんで沼のようになっていたりする。そんな所には木道が設けられていた。
どんどん下って樹林抜け出すと、長谷川にぶつかって、そこに指導標がたっていた。川の土手を行き、橋を渡って国道に出る。そこには曼荼羅の道という石標があった。熊野古道ではないのかと思ってしまう。
国道は那智川に沿って続いている。さすがに那智大社の参道らしく石灯籠がたっていて、歩道部分も設けられているので、安心して歩くことができる。
国道を
10分ほど行くと、古い石碑があって、指定文化財の標識がたっていた。これが「川関の庚申碑」だと思うのだが説明板の文字がかすれて、読むことができなかった。
ここから300mほど行くと、川関バス停があって、その先には高速の高架が見えた。
このすぐ先に指導標がたっていて、これに従って国道から離れて左の集落の道を行く。
5分ほど行くと、補陀洛寺の入り口があった。でも、これは正面の入り口ではない。私は裏門から境内に入った。
庫裏に通じる道を行くと、渡海僧の墓と平維盛の供養塔が裏山の中腹あるというので、まず行ってみることにした。重いザックはこの標識の下に置いて行く。
樹林の中、石段を上って渡海僧の墓に着く。卵形の墓石がいくつも並んでいた。この後ろの一段高いところに古い石塔が並んでいる。これが平維盛の供養塔であった。宝筺印塔や卵形の墓石などが並んでいるのだが、どれが平維盛の供養塔なのかよくわからなかった。
引き返して、ザックを背負って補陀洛寺の本堂の前に出る。比較的新しい本堂であった。



 浜王子から那智駅へ

熊野三所大神社拝殿


熊野三所大神社


神武天皇顕宮跡の碑


浜の宮王子社の説明板


振分石


補陀洛寺の奥に熊野三所大神社の社殿がたっている。ここが浜の宮王子跡なのだ。
その石碑でもないのかと探したが見あたらない。若宮跡と書かれた白い標柱だけがたっているのを見つけた。
正面の参道を歩いて行くと、すばらしい古木がそびえたっている。この古木の下まで行ってみると、浜の宮の大樟という標識があって、推定樹齢は
800年と書かれていた。
このすぐ先で鳥居をくぐって境内からでると、樟の古木の下に、いつもの青い説明板があるのを見つけた。
神社から出て、右に行くと広い駐車場があって、その前に「振分石」があった。古来、浜の宮は熊野古道の中辺路・大辺路・伊勢路の落ち合う場所で、中心宿駅だったのだ。振分石は300年毎に建て替えられたようで、今のものは萬治元年(1658)のものである。
このすぐ先で、信号の交差点に出たが、駅がどこなのかわからない。適当に歩き始めたのだが、振り返ると信号の交差点は那智駅前となっていた。あわてて
引き返したら、すごく広い広場があって、その奥に朱の柱と白壁の「丹敷の湯」がある。その隣にも同じような平屋の建物が見えるのだが、よく見たら、これがJR那智駅であった。時間は17時少し前であった。
この駅をよく見たら、無人駅で、しかも駅の扉は開放されている。これなら待合室に泊まれそうである。駅のベンチで寝ることに決めて、隣接する温泉で時間をつぶすことにした。温泉はサウナなどの施設はなくて、ただ湯船があるだけであった。風呂からは
30分ほどで上がって、あとは休憩室でテレビをみていた。
休憩室で、地図を広げて計画を練っている人がいるので話をしたら、熊野古道を明日、本宮まで歩こうとしているのだった。熊野古道を歩く人は多いのだ。
21時を過ぎたら、温泉の人に声をかけられたので、外に出る。あとは本を読んで終電車が過ぎるのを待って、それからベンチの上に寝袋を広げた。けっこう快適に眠ることができた。


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