千里観音→南部峠→南部大橋→三鍋王子→鹿島神社→田辺市→大神社(芳養王子)→→一里塚地蔵堂→牛の鼻お堂→潮垢離浜跡

大阪天満橋から歩くこと8日間、ようやく紀伊田辺の潮垢離浜に着いた。熊野詣でをする人は、ここで海の水を浴びて禊ぎをし、いよいよ熊野の山に分け入るのだ。
紀伊路はここで終り、この先は中辺路である。
三鍋王子

 68三鍋王子へ

畑のあぜ道、これも熊野古道


二連のトンネル


ここが南部峠


梅干の工場があった


南部大橋、歩行者専用の橋がある


三鍋王子

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2010年3月17日

千里観音の境内にたつ指導標に従って古道を歩き始める。ところがすぐに道がわからなくなった。道が分岐しているのだが、右は畑の中の細い道で、左は舗装された細い道。ガイドブックでは谷に沿って下るとある。それなら、この畑の道である。これを行くと道はどんどん細くなってあぜ道になってしまった。間違えたか…と思ったが、そこで農作業をしていたおじさんに聞いたら、この道でいいのだという。なんとか指導標をつけてくれないものだろうか。

ようやく簡易舗装の道になると左にカーブして行って、トンネルで線路を渡る。ところが、すぐ先にもトンネルがある。上り下りそれぞれの線にトンネルが設けられているのだ。古道はこの真ん中で右折する。ここには指導標がたっていた。
熊野古道はだんだん急な上りになって、これから南部峠を越えるのである。果樹園の中を行くと広い車道に出て、これを歩いて行くと南部川運送の建物があった。このすぐ先で、車道から右の細い道に入るのだ。ここにたつ指導標に従って歩くと、地蔵堂のある字路に着いた。ここが南部峠であった。
T字路を右に行く。果樹園の中から鬱蒼とした樹林を下って集落に入ると、左には国道が通っているのが見えた。熊野古道は国道には出ることなく、そのまま平行した道を行く。よかった…と思っていたら、鉄道線路をトンネルでくぐったその先で国道と合流してしまった。

ここからはしばらく国道を歩いて行くのだ。左に梅干館という大きな工場があった。そういえば、紀州は梅干しで有名なのだった。
国道は南部川を渡るのだが、橋には歩道部分が着いていない…と思って焦ったら、すぐ隣に歩行者専用の橋があった。感謝。橋の上から眺めると、右手はすぐに海であった。
橋を渡ったところに指導標があって、三鍋王子には左折するのだ。ところがこの先がわからなかった。
ちょうどゼンリンの調査員がいたので聞いたら、熊野古道のことはしらないが、この先に王子神社があるという。
それだと思って、神社への行き方をきいて歩いていった。道の角に鳥居がたっている…と思ったら、これが三鍋王子であった。
なんとか着くことができた。でも、ガイドブックの地図だけでは道に迷ってしまうことがわかった。二万五千分の一の地図持ってこなければダメだと痛切に思った。

三鍋王子の境内には小栗判官の井戸もあった。熊野古道は小栗街道でもあるのだから、その伝承地は多いのだ。
休んでいたらさっきのゼンリンの調査員が来て、少し話をした。



 69芳養王子へ

商店街らしき広い道


鹿島神社


田辺市に入った


田辺市の指導標


大神社(芳養王子)


三鍋王子神社の前の広い道を行く。道にはりっぱな歩道が設けられていて、商店街のようである。どんどん歩いて行くと、左に南部駅が見えた。その少し先には南部高校があって、これを過ぎると広い道は終わってしまった。この広い道の最後は十字路になっていて、直進方向は細い路地になっている。熊野古道はこの路地を行くのだ。

少し行くと、右に神社の杜(もり)が見えた。行ってみたら、鹿島神社であった。ここの狛犬の表情がおもしろくて写真を撮ってしまった。境内にはヤマモモの老樹もあって、主幹は枯れたのだが、二本の枝木が大きく成長していた。
古道に戻って細い道を歩いて行く。
すぐに国道に出てしまったが、ここからの道もわからなかった。もうめんどうになって、そのまま国道を歩くことにした。
頻繁に行き交う車を見ながら歩いて行くのは疲れが倍増してしまう。足を引きずるようにして歩いて行くと、岬に沿って右にカーブしてゆく。でも、国道から離れて岬の峠を越えるショートカットの道があるので、これを行くことにした。
小さな峠に着いて、ここから下ると再び国道に出た。ここが堺の交差点で、地図で自分の位置が確認できた。右にあるのが堺港である。ここからふたたび国道を歩いて行く。

どんどん歩いて行くが目印になるものがなくて、また、自分がどこにいるのかわからなくなった。国道は田辺市に入った。さらに国道歩きが続く。10分ほど行くと国道はトンネルを抜けて、この先に井原のバス停があった。ガイドブックでは井原の集落を過ぎて…と書いてある。集落をバイパスしている国道から左に入ってみると、古い家並みが続いていた。これが熊野古道のようである。この道の入口を私は見逃してしまったようだ。
5分ほど行くと松井橋を渡った。この橋はガイドブックに記載されてあるので、正しい道を歩いていることが確認できた。橋から少し行くと国道に出てしまって、これを横断歩道で渡ったところに熊野古道の指導標があった。少し行くと右に神社が見えてきた。これが大神社で、ここに芳養王子社があるのだ。
田辺市に入って最初の王子社であるが、境内には木の説明板があるだけで、いつもの青い説明板のはなかった。

ここで少し休憩する。14時半になっていた。



 潮垢離浜へ

芳養の街中を行く


松並木を行く


潮垢離浜跡がある児童公園


潮垢離浜跡の碑


大神社の前から古い町並みを歩いて行く。
7分ほど行くと右に枝を広げた古木があって、その下にお堂がたっている。これが一里塚跡であった。ここには一里塚地蔵尊のお堂がたっていた。
このすぐ先に郵便局があって、国道と合流した。しばらく国道を歩くのだ。
国道の道ばたに立つお堂を見つけた。牛の鼻のお堂であった。
ここから少し行くと右側が松林になって、松並木が少し続く。
この先、元町の交差点で右に入らなければいけないので注意して歩いて行って、それらしき大きな交差点に着いたが名前が違っていた。困った。でもここから右の道に入ってしばらく行ってみた。わからない。広い道から右に入って細い道を歩いてみた。道ばたに住宅地図の掲示板があって、この先に児童公園があるようだ。ガイドブックには潮垢離浜跡碑は児童公園にあると書いてあるので行ってみた。正解だった。なんか奇跡的にここにたどり着くことができた。
児童公園にはたくさんの石碑があるのだが、その一つが潮垢離浜跡碑であった。かってこの付近一帯は「出立浜」と呼ばれて、熊野詣人はここで潮垢離をして穢れをを祓ったのである。
後鳥羽上皇に同行した藤原定家は体調が悪かったにもかかわらず、ここで無理矢理、潮垢離をさせられたという。藤原定家が熊野古道を歩いたのは10月(旧暦)のことだから、さぞや寒かったのではないかと思う。かわいそうに…。
熊野詣のため穢れを祓ったところで、いよいよ熊野の山に分け入って行くのだ。この先が「中辺路」である。
ここまで来たろころで「紀伊路」のページを終了させることとする。


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