鹿ヶ瀬峠→石畳→板碑前休憩所→金魚茶屋跡→沓掛王子→爪かき地蔵→四ッ石聖蹟地→馬留王子→内ノ畑王子→愛子淵→高家王子(内原王子神社)→善童子王子→愛徳山王子

鹿ヶ瀬峠から湯浅の町に向かって下って行く。この道には古道の中で一番長い石畳があって、板碑や地蔵堂がある歴史の道である。



峠からの降り口


石畳道の休憩所


板碑前休憩所


国道に出てしまった


沓掛王子跡
 50沓掛王子

BACK 逆川王子から鹿ヶ瀬峠へ

2010315

食料は豊富に持っていたのだが、昨夜はラーメンとパンを1個かじっただけであった。(ダイエットだ)今朝はお湯を沸かしてコーヒーをつくり、パン1個をかじった。
テントの撤収を終えて、歩き始めたのは720分。今日は午後から雨になるので、適当なところでテントを張ってしまおうと思っている。
峠からはまったくの山道で、照葉樹林の中を下って行く。どんどん下って行ったら、20分ほどで小峠に着いた。ベンチが二つあって、道しるべを兼ねた地蔵さまもたっていた。
小峠からさらに下ると古い石畳道になった。最初は土に隠れていて気がつかなかったのだが、下るにつれて石畳ははっきりしたものになった。
樹林の中をジグザグに下り、小さな橋を渡ると休憩所があった。そこには高札形の説明板があって、今歩いてきたのは熊野古道で現存する最長の石畳道だと書かれていた。全長503mもあるのだという。
この休憩所を過ぎて少し下ると段々のお花畑があて、すばらしくこれいであった。
道は芝生のようになって、すごく歩きやすい。傾斜も緩まって、ルンルンで歩いて行くと「板碑前休憩所」に着いた。私はここをテントを張る候補地にしていたのだが、丸テーブルと丸いイスがあるだけであった。
板碑はあまり多くはなかったが、いずれも室町時代のもので、
嘉吉二年(1442)という年号も読めるのだ。
ここから少し下ると蔵造りのトイレがあった。金魚茶屋跡である。ここも私のテントを張る候補地だったのだが、トイレがあるだけであった。
ここで少し休憩しながら、すぐ目の前にある竹藪を見ると、その竹が黒いことに気がついた。この黒竹は釣り竿や工芸品に用いられる貴重な竹のだ。

集落の中に入って行くと大きな木があって、その下に金魚茶屋跡の説明板があった。金魚を飼って旅人を慰めていたらしい。
集落にはたくさんの花が咲いていて、楽しく歩いて行ったのだが、突然、国道42号線に出てしまった。この先は車道歩きかと思ったら、熊野古道は国道を縫うようにして、左右の集落を通って行くのだ。そのぶん遠回りになるのだが、やはり車が行き交う国道は通らなくて正解である。
のんびり歩いていたら、右の石段の上に青い説明板を見つけた。ここが沓掛王子跡である。危うく見逃すところであった。



 51西の馬留王子

集落には花がきれいだ


馬留王子跡


原谷集落を歩いて行く。集落には花がたくさん咲いていてすごくきれいであった。

広い道が左から合流すると、その手前に小さなお堂があった。爪かき地蔵というのだ。昨日も同じ名前のお地蔵さんがあったっけ。格子戸から覗くと、名前の通り岩に線描された地蔵があった。
この先、広い車道には出ることなく、平行する細い路地を歩いて行く。ほとんど人の庭先ではないかというようなところを行く。本当にこんなところを歩いていいのかと思いながら行くと、古い民家があった。驚いたことにこれは簡易郵便局だった。
細い道から車道に出ると、左に神社の石段があった。その道の向かいには「四ツ石聖蹟地」の標識があった。藤原定家の「御幸記」に後鳥羽上皇がここで小憩したと記されているのだ。
この先すぐに左の細い道に入ると、道ばたに西の馬留王子跡があった。殿上人たちは熊野詣の帰路に、鹿ヶ瀬峠越えを前にしてここに馬を留めたというのだ。沓掛王子と内ノ畑王子の間にあることから間(はざま)の王子ともいうらしい。
この前で少し休憩した。だいぶ疲れがたまってきているので、今日は
1時間半毎に休むことにしているのだ。



 52内ノ畑王子
伊予柑をもらった


小川に沿って行く


内ノ畑王子跡


このすぐ先には光明寺があった。由緒ありそうなお寺だったが、長い石段を上らなければいけないので止めてしまった。(…ナンジャクモノ)

集落の中を歩いていたら、突然軽トラックがやってきて、私のすぐ前で止まった。車の通行のジャマだと文句を言われるのかと思ったら、おじさんはトラックに積んであった伊予柑をひとつ私にくれた。のどが乾くだろう、甘いよと言ってくれた。四国の遍路をしたときは御接待をうけたが、熊野古道でこんな親切にあうと…、感激してしまった。
さらに集落の中を行くと、ブロック塀には挟まって、一里塚跡の石標があった。
車道に出て少し行くと、右折して「なめら橋」を渡る。対岸を歩いて行くと、すぐに今熊野神社があった。熊野と名が付いているのでお参りして行こうと思ったが、すさまじく急な長い石段が聳えていた。もちろん、お参りは止めた。私はコンジョウナシなのです。
神社のすぐ先に内ノ畑王子跡があった。いつもの青い説明板があって、その横には内ノ畑王子跡と刻まれた大きな石柱がたっている。
ここに祀られたいたの「ツチ金剛童子」であったため、「槌の王子」とも呼ばれていたらしい。



 53高家王子

伝説の愛子の淵


内原王子神社の杜


高家王子跡


田園の広がる中をのんびり歩いて行くと、内の畑橋が見えてきた。この橋は渡らずに、その手前で右の道に入る。
再び田園風景の中を行くと、「愛子の淵由来」という説明板が立っていた。
道は左にカーブして行って、大きな橋の前に出る。この橋を渡ろうとして、右に高家王子を指す指導標に気がついた。川に沿った細い道を行と道は工事の真っ最中であ、小型ショベルカーの横をすり抜けて、ようやく神社の前に着く。
神社の名前は内原王子神社というのだ。
それではここにあるのは内原王子というのかと思ってしまうのだが、高家王子である。
境内の砂はきれいに掃き清められていて、すばらしい神社である。さっきお参りした「内ノ畑王子」はこの神社に合祀されているのだ。

境内にはいつもの青い説明阪があって、藤原定家の歌碑もあった。藤原定家は建仁元年(1201)に後鳥羽院に随行して熊野詣をしたのだが、その途中の切目王子で歌会があって、そとき詠んだ歌が刻まれている。
 萩原や 野べより野辺に うつりゆく
 衣にしたふ 露の月影

この神社はなにかしら雰囲気がよくて、休憩することにした。



 55善童子王子

紀勢線の鉄橋が見えてきた


弁財天古墳の指導標


善童子王子跡


内原王子神社から引き返して、王子橋を渡る。JR線紀勢線の鉄橋が見えてきたところで左の道に入ると、すぐに水準点があった。

田んぼに咲き誇るレンゲの花を見ながら行くと、一里塚があった。この一里塚の石標は新しいものなのだが、本当に一里ごとのたてられているのだ。
菜の花が咲く田んぼを右に見て、緩やかな坂を上ると大きな溜め池があった。このあたりはけっこう溜め池が多い。
弁財天古墳250mの指導標があった。私は古墳が好きなので立ち寄りたいと思ったが、250mを歩くのがおっくうでパスしてしまった。
少し行くと道端にお地蔵様と指導標があった。このお地蔵様は「足切地蔵」というのだ。
ここからは、すぐに善童子神社駐車場である。駐車場入口には王子跡にある青い説明板がたっていた。でも、書かれているのは王子跡の説明ではなくて、熊野古道の詳細な地図であった。この地図はわかりやすくて、すごく助かった。
駐車場から林の中に入って行くと社と石標があった。でも、あの青い説明板はなかった。



 56愛徳山王子

民家の間を行く


愛徳山王子


善童子王子からは橋を渡って、再び民家の間の細い道を行く。道には小さな木の指導標が置かれていて、迷うことはなかった。
10分ほどで愛徳山王子の前に着いたが、ここからは家の間の細い道に入るのだ。
すぐに愛徳山王子に着くと思ったらそうではなくて、畑の中の坂道を登って鬱蒼とした竹藪に入って行く。竹藪から右に曲がるとちょっとした広場があって、そこに愛徳山王子跡があった。
青い説明板はなくて、愛徳山王子と刻まれた石標があるだけであった。この横にあるのは、「市指定文化財」の石碑であった。


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