御所の芝→橘本王子→所坂王子→壺王子→蕪坂→蕪坂塔下王子→太刀の宮→爪かき地蔵→山口王子→有田川→得生寺→糸我稲荷神社→熊野古道歴史民俗資料館→糸我王子

御所の芝から下って再び蕪坂を急登して峠を越え、降り着いたのが宮原の集落。ここで有田川を渡ると「熊野古道歴史民俗資料館」がある。ここの展示で一番の見物は藤原定家の熊野詣日記をイラスト化したもの。定家がいかにヘタレであったかわかってしまうのだ。
橘本王子跡


パッキングを終えた


地面のパネル


ミカン畑を下る


橋本王子のある阿弥陀寺
 39橘本王子

BACK 松代王子から御所の芝へ

2010314

朝目が覚めたらもう620分になっていた。外に出て見ると、下は白く霞んでいた。
パッキングを終えて、歩き始めたのは75分。地蔵堂に下ったところで、本堂にもう一度お参りした。ついでに、本尊の石造地蔵菩薩坐像を格子戸の間から拝観させてもらった。
集落の道を歩き始めたら、休憩所の管理人に会ってしまった。上で泊まったということを知られただろうか。

地面に例のパネルがあって、これに従って古道に入る。よく見たら、パネルのデザインは今までのと少しだけ違っていた。細い道をどんどん下って行く。山の斜面にはミカン畑が広がっていて、これはこれですばらしい眺めなのだ。ときどき簡易舗装の道が交差するが、古道はこれを通らず山道が続く。
山道から集落の細い道を行くようになる。民家の軒先には熊野古道と書かれた提灯が下がっていて、古道の道しるべになっている。見上げるとミカン畑の斜面がすばらしい。
集落の中を歩いて行ったら「土橋」という橋があった。これを渡ろうとして、地図を確認したらこの手前に橋本王子跡があるのだった。見逃してしまった。あわてて引き返すと、石のお地蔵様があって、そこに小さいけれどもちゃんと指導標があった。ここから路地に入って二度ほど角を曲がるとお寺が見えてきた。阿弥陀寺で、この境内に橘本王子跡があるのだ。
お寺の門には橘本王子と書いた提灯が下がっていて、お寺よりも王子社のほうがメインかと思ってしまう。
境内にはいつのも青い説明板があって、それには福勝寺まで
500mとなっていた。本当は地蔵峰寺から福勝寺を経由してここに来るべきだったのだ。このコースには浦見の滝や五輪石塔などがあるというのに、もったいないことにした。



 40所坂王子 41一壺王子(山路王子)

所坂王子跡


風力発電の山稜が見えた


一壺王子の碑


熊野古道に戻って土橋を渡ると、そこには土橋の説明板があった。かって、土橋付近には伝馬所や旅籠が軒を連ねて、交通の要衝だったのだ。

古い家並みを抜けて広い道に出ると、すぐ先に橘本神社があった。石段を登って境内に入ると、所坂王子跡の青い説明板がたっている。
ここからさらに石段が続いているので登って行くと、橘本神社拝殿がある。この神社は黄泉の国から橘(現在のミカン)を持ち帰って、天皇に献上したという田道守守命(たぢまもりのみこと)を祀っているのだ。とすると、現在の紀州ミカンはここに源流があるということになる。

石段を下って引き返すと、昭和天皇が皇太子のときに植えたという楠があった。大きく育っていた。
川に沿って歩いて行くと、行く手には風力発電の風車が並ぶ山稜が見えた。
道の右側に神社があると思ったら、そこに王子社跡の青い説明板がたっていた。ここが山路王子神社である。山路王子という王子社があるのかと思ってしまうのだが、ここにあるのは一壺王子跡である。
鳥居の横に大きな土俵があった。この神社では「なき相撲」が行われるのだった。村内外の幼児が赤いふんどしを締めて行司役の氏子総代に抱かれて、土俵の上で一勝一敗になるように土をつけてもらっい、子供の健康を祈願するのだ。
長い石段の上に山路王子神社の拝殿があるので、登って手をあわせた。



 42蕪坂塔下王子
坂の途中に児童会館


ミカン畑の中を登る


トイレのある休憩所


蕪坂塔下王子


山路王子神社を後に、流れに沿って歩いて行くと道はしだいに急になって行く。この道のガードレールは丸太を半分にしたものであった。めずらしい。

車道から左に入ると、すさまじく急な登りになった。古い民家の間の細い道を登って行く。これはかなりきつい。これが「蕪坂」で、熊野古道難所のひとつなのだ。
集落から抜け出すと、行く手には葛籠折れの車道が見え、これを登って行くと、途中に児童会館があった。その一部は神社のようで、隣接して石灯籠や熊野古道の案内板がたっていた。
児童会館のすぐ先でようやく傾斜が緩まって、沓掛集落の中に入った。集落を抜けると、車道から離れて再び山道の急な登りになる。ミカン畑の横を登って、ようやく行く手に車道が現れる。ここが峠のようだ。
車道に出たところでこれを右に行く。山の上は台地になってのか平坦な道が続き、右手には展望が広がっている。海がすばらしくきれいである。
途中には万葉歌碑があった。
 安太へゆく 小為手の山の 真木の葉も
 久しく見ねば こけむしにけり

万葉歌碑を過ぎると再び展望が広がって、下りが始まるところにトイレのある休憩所があった。
その下り口に蕪坂塔下王子跡があった。いつもの青い説明板があって、その横には万葉歌碑が建てられていた。これは最近つくられたもののようだ。
 木の国の 昔弓雄の 響矢用ち
 鹿獲り靡けし 坂の上にぞある

紀伊国名所図会には「鏑矢もて鹿を射ちし坂なれば蕪坂と名付けしにや、峠に茶店あり」とあるので、この万葉歌から蕪坂の名がついたようだ。
ここには小さな社もおかれていた。



 43山口王子

展望の開けた坂道を下って行く


ここが山口王子跡


蕪坂塔下王子から急な坂道を下って行くと、太刀の宮という神社があった。大阪夏の陣にまつわる伝説がある神社なのだ。

展望の開けた古道をどんどん下って行くと、車道と交差するところに立派なお堂がたっていた。古くには、このあたりに金剛寺があったらしいのだが、今はこのお堂が残るだけなのだ。
お堂に祀られるのは「爪かき地蔵」である。中を覗くと大きな平たい石があって、そこには地蔵尊が線刻されているらしい。でも、その線描画は暗くてよくわからなかった。

お堂の前からさらに古道を下って行く。竹藪から抜け出すとすばらしい展望が開がった。いつの間にか、すごく高いところに登っていたことに気がついた。それにしても、あんな下まで下らなければいけないのか…。
すばらしい景色を眺めながら、ミカン畑の中をジグザグに下って行く。快適である。

傾斜が緩まってくると、道の左に小さな公園があって、新しい東屋がたっている。ここが山口王子跡であった。
小さな社があって、その横にいつもの青い説明板がたっていた。



 有田川を渡って44糸我王子へ

ふれあい広場で長めの休憩をした


有田川を宮原橋で渡る


得生寺に着いた


糸我村の一里塚


糸我稲荷神社に着いた


糸我王子跡


山口王子の少し先で集落の中に入るが、熊野古道の標識が親切につけられているので、これに従って歩いて行く。どんどん集落の中を行くのだが、目印の「伏原の墓」が見つからない。指導標も現れなくなって、どこかで通りを間違えたのかと心配になってきた。さらに途中には「熊野古道ふれあい広場」があるはずなのに、それも見つからない。

町中に小学校校舎が見えてきて、これは完全にふれあい広場は通り過ぎてしまったと思っていたら、交差点に熊野古道ふれあい広場を見つけた。地図とはまったく違う場所で、いったいどうなっているんだと思ってしまう。でも、この広場はすごく新しいので、最近移設したのではないかと思った。ともかくここは快適な休憩所で、長い休憩をとってしまった。
広場前の広い交差点を渡ってすぐに左の道に入る。踏切を渡ったすぐ先に川の土手が見えた。土手には車道が走っているのだが、ここに上ると神社があった。天満宮なのだが、そこには「宮原の渡し」の説明板があった。目の前に悠々と流れているのが有田川で、昔の熊野古道はここで川を渡ったのだ。車道を少し右に歩いて、宮原橋を渡る。長い橋であった。
橋を渡りきるとサイクリングロードが土手に沿って設けられていて、これを歩いて行く。大きな木が茂っていたので、これがこちら側の渡し場かと思った。でも、標識はなにもなかった。
サイクリングロードの途中から右に下って、すぐに国道42号線を横断する。少し行くと得生寺があった。
この寺は来迎会式が有名で、中将姫ゆかりの寺でもある。中将姫といったら、奈良
當麻寺の曼荼羅図しか思い浮かばないのだが、どうしてここに中将姫がいるんだと不思議に思ってしまった。調べると、中将姫は継母に疎まれて、十三才のときにここ糸我の雲雀山に捨てられ殺されそうになったのだ。姫はここに留まった3年間で浄土経一千巻を書写したという。
境内には万葉歌碑もたっていた。
 足代(あて)過ぎて 絲鹿の山の 桜花
 散らずあらなむ 還り来るまで
このすぐ先には糸我村の一里塚があった。江戸時代の初め、紀州藩が熊野街道整備の一環として築いたもので、城下から五里の位置である。
一里塚から少し行くと、右手には巨木が茂る神社があった。糸我稲荷神社である。樹齢
500年を越える楠の巨木が聳えている。明治までは4本あったというが、今は3本である。それでも、その巨木が茂るさまは圧巻である。私は巨木が大好きなのだ。この神社の前には白河法皇が休憩したという碑があった。
神社から少し歩いて、ここに熊野古道歴史民族資料館があったことに気がついた。あわてて引き返した。神社に隣接して建物はあった。入場は無料で、中でお茶のサービスもあるので、のんびり休憩してしまった。
ここでの見ものは藤原定家の熊野詣の日記で、定家がどのような日程で古道を旅したかがわかるのだ。
資料館から細い路地を歩いて行くと広場があって、そこに小さな社と青い王子跡の説明板があった。ここが糸我王子跡である。社は糸我王子社なのだ。
王子跡から少し歩くと、古道は左に分岐する。そこには「糸我王子跡」という石碑がたっていた。さっきのはいったい何だったのだ。


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