力侍神社→紀ノ川→吐前王子→川端王子→和佐王子→矢田峠→平緒王子→奈久智王子→竹内神社→松坂王子

朝一番で紀ノ川を渡ると、あとは和歌山市を歩いて行くのだ。この区間には矢田峠越えがあるのだが、峠からは広大なミカン畑の斜面をを下る。なにかしら、いかにも紀州を歩いているという気がしてしまうのだ。
紀ノ川



力侍神社拝殿


神社前の指導標


 力侍神社を参拝

BACK 馬目王子から力侍神社へ

2010313

昨日は力侍(りきし)神社の拝殿にテントを張って泊まったのだが、ここには一晩中明かりがついていた。私は疲れていたのですぐに眠ってしまった。朝、5時半頃にお参りする人がいて目が覚めた。もう少し眠ろうかと思ったが、結局起きてしまった。
外に出たらまだ薄暗かった。テントをたたんで、ザックへのパッキングを終えた頃、明るくなった。
お世話になったお礼にもう一度本殿にお参りをした。
力侍神社は「天手力男命(あめのたぢからおのみこと)」を祭ることからこの名前となっているのだ。天手力男命といったら、高天原で天照大神が岩戸に隠れたとき、扉の岩を怪力をもって開けた神である。摂社として八王子社も祀られていた。
参拝を終えて歩き始めたのは
6時半である。長い参道を歩いて、入り口の鳥居に着く。
ここに立つ指導標を確認したら川辺の渡しまで
800mとなっていた。



 28吐前王子

横断歩道を渡ったところに指導標があった


紀ノ川の土手が見えてきた


川辺橋


布施屋の渡し場跡


吐前王子跡


地面にある熊野古道のパネルに導かれて歩いて行く。広い車道を横切ったが、ここには横断歩道がない。でも、朝早くて車がほとんど通らないので簡単に横断できた。これをまっすぐに進んで、民家の間を行くようになる。右手にお堂があった。なんのお堂なのかわからなかったが、ガイドブックに登載されているお堂である。…とするとすぐそばに道しるべ石があるはずである。探したがみつからなかった。
お堂の先は
字路で、古い立派な長屋門があった。ここを右折したら、長屋門の横にしるべ石があった。この先コの字に曲がって集落から抜け出すと、行く手に土手が見えてきた。これが紀ノ川である。
土手の前まで行ったら、川辺の渡しの標識があった。かっての熊野詣は紀ノ川をここから船で渡ったのである。でも、今は少し下流に「川辺橋」がかかっているので、これで紀ノ川を渡る。土手を歩いて行くと、けっこう車が多くて、注意しながら歩かなければいけなかった。

紀ノ川にかかる川辺橋は長かったが、橋から眺める紀ノ川は悠々と蛇行して流れていてすごくきれいであった。橋を渡り終えると、通行量の多い車道があって、これを少し行くと布施屋のバス停があった。この先で土手から下る。この間、目印にしていた地面の古道パネルがなくて、少し迷ってしまった。
土手から下って行くと字路があって、ここには指導標がたっていた。右に行くと布施屋の駅に行けるのだ。
指導標に従って、左にまっすぐ歩いて行くと、大きな食品工場があって、その前に案内板らしきものが見えた。行ってみたらそこが、布施屋の渡し場であった。さっき、紀ノ川の向こうに川辺の渡し場があったが、船で渡ると、ここに着くということである。でも、ここは川からかなり離れているのだけど…。
さらに東に向かって歩いて行く。もう、吐前王子に着いてもいいはずだと思うのだが、案内表示もなくて、だんだん心配になってきた。右に平行していたJR線がだいぶ近づいてくると、指導標がたっていた。ここで右折して踏切を渡るのだ。渡ったところで、うれしいことに地面の熊野古道標識が現れた。これで安心である。
田んぼの中に吐前王子の石碑があった。
吐前では紀ノ川の水で心身を清める水垢離をして、それから王子社にお参りしたという。そんな大層なことをしてお参りした王子社も今は田んぼになって、跡形もないのだ。



 29川端王子

細い路地を行く


川端王子


吐前王子跡から少し行くと再び集落の中に入って、右折する。線路に沿って東に歩いて来たのだが、ここからは引き返すように西に歩いてゆくのだ。
細い路地をひたすら歩いて行く。線路を挟んで、布施屋駅に戻ったような頃に、ルートの目印である「布施屋自治会館」があった。
ここで左折するとすぐ先に熊野古道の標識があって、再び左折するようになっている。方角的が違うような気がするのだが、行ってみた。
すぐに川端王子跡があるはずなのに着かない。指導標もなくて、心配になって引き返した。自治会館のあたりまで引き返して、通りがかりの人に聞いたら、道は間違っていなかったのだ。もう少し先まで行かなければいけなかったのだ。
私が引き返したところから少しだけ行くと、ちゃんと川端王子跡があった。
字路の角にあって、立派な祠が設けられていた。



 30和佐王子

県道を横切る


至誠小学校跡


和佐王子跡は小公園になっていた


川端王子から指導標に従って歩いて行く。住宅地の路地を行くのは指導標がないと迷ってしまうのだ。家並みが尽きると、展望が開けた。
田んぼの中を少し行くと、広い車道(県道岩出海南線)を横切る。ここにも横断歩道はなくて、熊野古道の指導標には「横断注意」と書いてあった。
再び住宅地に入ると、熊野古道は複雑な曲り方をするのだが、親切な新しい表示があって安心だった。住宅地が続くのかと思ったら、すぐに落ち着いた感じの細い道になった。住宅地には路地がいっぱいあるのだが、古道というのは、一応まっすぐに続いているのものなのだ。住宅地の道ばたに至誠小学校跡の標識がたっていた。明治12年(1879)に開校したというから、すごく歴史ある学校だったのだ。

小さな流れに沿って歩くようになったら、地面に古道のパネルが現れた。これがあると安心である。川を何気なく眺めたら、驚いたことに鯉が群れをなして泳いでいた。獲ってしまいたくなる。
古い大きな民家を眺めながら行くと、熊野古道のりっぱな案内板があった。ここにある地図はすごく参考になるものであった。(以下に登載した地図はこれを写真に撮ったものである。)
ここから少し行くと、立派な塗り壁の塀が続いている。すごいなぁと思いながら歩いて行くと、これは国の重要文化財の「中筋家住宅」であった。
中筋家から少し行くと広い車道に出るのだが、その手前に階段がある。この階段を上ると広場があって、ここに和佐王子跡があった。東屋がたつきれいな広場で、一部標識にはブルーシートがかけられて工事中みたいでもあった。広場の真ん中には丸石を積み重ねた上にたつ古い石碑がある。これは、この地を王子跡と紀州公が認定した碑なのだ。



 31平緒王子

ここから矢田峠への登り


矢田峠


ミカン畑を下る


平緒王子跡


県道を渡って少し行くと、住宅地から外れて登りになる。すぐにその先で道は右に分岐して急な階段の登りになり、車道を横切った。この先は矢田峠に向かってひたすら登って行くのだ。展望が開けて、下の眺めがきれいだ。
階段を上って行くと、竹などの倒木で道がふさがれていた。倒木を抜けてさらに登って行くと、意外とあっさり矢田峠に着いた。切り開かれた峠で、右の斜面に石仏があった。
峠から先行くと舗装道が通じていた。左には金網に囲われた施設があるのだが、その金網の一郭に南無阿弥陀仏の石碑がたっていた。
この金網の前で舗装道は分岐している。標識があって、古道は右となっている。でも、マジックで左と訂正されていた。悩んだが、右を行ってみた。急な坂道をどんどん下って行く。でも、私のガイドブックの地図とは違う方向に進んでいる。その後標識も現れないので、心配になって引き返した。急な坂を下った後、これを引き返して登るのはきつかった。
分岐に戻って、左の道を行く。これは地図と同じだと確認できた。ミカン畑が一面に広がる斜面を下って行く。眺めは最高である。

どんどん下って平坦になると、集落の中を行くようになる。でも、このあたりから道がわからなくなった。すぐに県道に出るはずなのになかなか着かない。でも、右に県道が通じているのは間違いないのだから、方向的には間違っていないはずである。
ようやく県道を横切ったところには、古道の指導標があった。さっきの分岐で右に分かれた道はちゃんとここに通じているようで、私のガイドブックとは違うルートがあるということだ。でも、私が歩いた道のほうがミカン畑がきれいだったような気がする。(…と自分を慰めた)
集落の中を少し行くと、右のすぐ先に平緒王子跡があった。この跡の後ろにたっているのは平尾自治会館であった。



 32奈久智王子
りっぱな指導標がたっていた


奈久智王子跡


平緒王子からは田んぼの間の細い道を行くのだが、りっぱな指導標がたっていた。
南海線の踏切を渡ると辻にお堂があって、これがガイドブックにある六地蔵であった。このあたりは複雑に道を曲がるのだが、指導標がなくて判断に迷った。さっきはあんなにりっぱな指導標があったのに、肝心なところにはたっていないのだ。

県道に出てしまったが、県道を行ったらいいのかどうかわからない。道は南に向かわなければいけないのだが県道は東になっている。でも、ここから少し先で南にカーブしているようだ。県道を行ってみることにした。道は緩やかに蛇行するように続いて、児童公園の中に熊野古道案内図がたっているのを見つけた。この道で間違いないのだ。
ここから少し行くと、古い家の前に奈久智王子跡の説明板があった。これがそうかと思ったら王子跡はこの民家から山向かって上ったところにあるのだ。畑の間の細い道を上ると奈久智王子跡があった。いつもの青い説明板がたっていて、この後ろには古いお堂があった。



 33松坂王子

高速の高架をくぐる


竹内神社


四ツ石地蔵


松坂王子の祠


県道に戻って、これを歩いて行くと高速道路が見えてきた。この高速道路をくぐった先には池が広がっていて、古道はその手前で左折するのだが、私はもう少しだけ直進してから左折した。すぐに竹内神社があった。
竹内宿禰を祀る神社で、ここには宿禰誕生の井戸があるのだ。大きな鳥居をくぐって拝殿の前に出るが、井戸らしきものはない。でも、右に建物があるので、中をのぞいてみたら井戸が見えた。竹内宿禰は景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五代の天皇に仕えたといわれ、年齢は280歳とも360歳ともいわれる伝説の人なのだ。
この神社で少し休憩した。
古道に戻ってからは、高速道路に沿って歩いて行く。右に新池・大池が広がっていた。
熊野古道の標識は南海市教育委員会のたてた石標になっていた。和歌山市から南海市に入っていたのだ。
県道から離れて左の道に入ると、はじめは狭かったが、けっこう広い道になった。でもその先は工事中の細い道で、工事現場の横をすり抜けて前方の竹藪の丘を右に回り込む。
道は古い家並みの中に入って行った。この細い道を行くと、右の金網の中に大きな石が置かれていて、説明板がたっていた。ここが熊野古道の四ツ石で、金網の横には四ッ石地蔵のお堂があった。地蔵堂の左右に大きな石が二つづつあって、この石は三上院千光寺の礎石なのだ。

古い大きな民家を眺めながら歩いて、多田の集落を抜けると再び県道にぶつかる。そこに松坂王子跡があった。いつもの青い説明板がなくて、文字がかすれた木の表札がたっていた。王子跡には石を積み上げた小さなお堂があって、中にに石仏が入っていた。
この先は汐見峠への登りとなる。



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