馬目王子→中山神社→JR中山渓駅→大阪・和歌山県境→中山王子→雄ノ山峠→川辺王子→中村王子→力侍神社

今日まで三日間、大阪府を歩いてきたのだが、ようやく和歌山県に入った。すると突然、熊野古道の案内標識が一変、すごく新しくわかりやすいものになった。和歌山県は熊野古道に力を入れているのがよくわかる。
市街地が終わったおかげで、テント泊もできるようになった。これからが本当の熊野古道だ。
川辺王子跡


馬目王子跡


紀州街道


山中神社の入口
 23馬目王子

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2010年3月12日

高速道路の高架を縫うように歩いて行くと、琵琶ヶ岸懸のと同じ形の指導標があった。馬目王子まで
300mと書いてあった。
歩いて行くとわずか
100mほどで、道の左に石碑と表札があるのを見つけた。これが馬目王子跡であった。道端にぽつんとあって、見過ごしてしまうところであった。
ここから少し行くと「田中武八君碑」というすごく大きな立派な石碑があった。この人のことはまったくわからない。
家並みが近づくと、府道から左に入る道があった。石畳できれいに整備された道で、入り口には「紀州街道」という石標があった。
この石畳道を緩やかに上って行く。昔の宿場らしい雰囲気を残す道である。左に山中神社の石標があった。この神社にはさっきの馬目王子が合祀されているというので行ってみた。本当に狭い路地を行くと突き当たりに杜があって鳥居が見える。小さな神社で、鳥居をくぐったすぐ先に馬目王子の石の祠があった。
この祠の右に急な石段があって、これを上ると山中神社の祠があった。

この神社で休憩した。



 24中山王子

JR山中渓駅


JR阪名線


中山王子跡


石畳道を歩き、これが尽きると府道に合流する。そのさきに山中渓
JR駅があった。石畳道の入り口には賽の神の祠があった。平たい石を屋根にした小さなものである。
車に注意しながら府道を行くと、関所跡があった。説明板と小さな石碑がたっているだけである。南北朝時代に橋本氏がここに関所を設けたというが、応永2年(1395)には長慶天皇が歓心寺法華堂造営のために関銭をかけたという記録もあるという。
この先はひたすら府道を歩いて行くのだが、熊野古道には阪名自動車道とJR阪名線が平行している。緩やかに上って行くと、大阪府と和歌山県との境界の標識があった。そこには小さな橋がかかっている。境橋というのだ。
この橋の手前には新しい石碑がたっていた。ここが日本で最後の仇討ちの場だというのだ。仇討ちというのは忠臣蔵などで美化されているけど、やっぱり殺人であって、すごく野蛮なことだと思うのだ。
熊野古道は和歌山県に入った。そのとたん、熊野古道の案内標識が一変した。和歌山県は観光のために、世界遺産熊野古道を最重要視しているようで、指導標・案内板の地図など、大阪府とはまったく違う整備のしかたなのだ。私は大いに助かってしまう。
高速道路の高架に沿って歩いて行くと、熊野古道の指導標があった。右が中山王子となっている。でもそれが指し示す方向に道はなかった。本当は、この少し先で右の道に入ってJRの踏切を渡るのだ。渡ったすぐのところに中山王子跡があった。
熊野詣の殿上人たちは京都を出発して4〜5日程度で紀伊国に入ったのだが、紀伊国最初の王子社がこの中山王子なのだ。



 25山口王子

峠に向かって登って行く


山口王子跡


この先、滝畑の集落の中を歩いて行く。けっこう古い家並みもあった。集落を抜けるとすぐに道は
JRの踏切を渡って府道に戻る。府道の道ばたで足を投げ出して休憩した。
この先はカーブを繰り返して、峠に向かってひたすら登るのだ。すぐ横を阪名高速が走っていて、これを眺めながら歩いて行く。高速の道路標識で登り車線終了を見たら、こっちも傾斜が緩やかになった。下りになるとすぐ先に、不動明王のお堂があって、ここが雄ノ山峠であった。
すさまじいヘアピンカーブが続く。山あいに平野部が見えるのだが、紀ノ川はよく見えなかった。
どんどん下って行って、道が平坦になると、JR線路をトンネルで渡る。そこから少し行くと左に入る道があって、これを緩やかに下って行くと、山口王子跡があった。この横には万葉歌碑がたっていた。



 26川辺王子

山口神社の鳥居


粉川加太線を行く


川辺王子


山口王子から坂道を下って行く。すぐ近くに小野小町の墓があるというので、注意しながら歩いたのだが、結局見ることはできなかった。

集落の中を緩やかに下って行く。加太淡嶋神社の道標を目印に歩いて行ったのだが、なかなか着かない。疲れが募ってるからなのかもしれないが。
ようやくブロック塀に囲まれた墓地に着いて、その塀から石柱がのぞいている。右・左文字しか見えないのだが、近くに行ってよく見たら、たしかに加太淡嶋神社の道標であった。ここで右折して小さな川を渡る。その手前左に役行者の祠があった。

すぐに広い道を横断すると、その先には石の鳥居がたっていた。山口神社と書かれている。さっきの山口王子と関係あるのだろうか。
鳥居の前を左折して、広い車道に出た。粉川加太線である。この道を西に歩いて行くのだが、その前に目の前にあるローソンで休憩することにした。肉まんとポカリを買って、ローソンの駐車場の隅で足を投げ出した。ほとんど路上生活者とかわらない姿である。
粉川加太線は車の量が多いのに歩道が設けられていなくて、車に注意しながら歩かなければいけなかった。しかも、この車道歩きは長かった。
道が左にカーブして、さらにしばらく行くとようやく紀伊上野のバス停があった。ここで左の路地に入ると川辺王子があるのだ。ところがこの路地は複雑に交差していて、どこに王子跡があるのかまったくわからない。
カンで歩いて行って、ちょうど通りがかったおばさんに聞いたら親切に教えてくれた。道を一本間違えていた。
川辺王子跡の石柱と石碑の後ろにはブロック塀があって、その中に小さな神社がある。石の鳥居が直角に交わるようにたっていた。




 27中村王子

地面に熊野古道の標識があった


地面のパネルを捜しながら行く




力侍神社


休憩所があった


さて、ここからは中村王子を目指すのだが、この道がまったくわからない。南には川永団地らしき建物群が見えるのだが、そこにどう行ったらいいのか皆目わからないのだ。とりあえず、団地を目指して田んぼの中の道を歩いて行った。ちょうど通りがかった散歩のおばさんに道を聞いたら、中村王子はわからないが、熊野古道は、地面に表示があるからそれをたどればいいと教えてくれた。よくみたら、道に熊野古道と書いたパネルが道に埋め込まれている。
大感謝である。
この標識に従って歩いて行った。交差点で直進するときはなにもないのだが、曲がるときはその方向にパネルがある。これで安心して歩いて行くことができた。田んぼや民家の間を縫うように行くと、前方に神社の杜が見えてきた。これが力侍神社で、ここでは中村王子を合祀しているのである。
神社の参道入り口まできて、この手前にあるはずの中村王子跡を見逃してしまったことに気がついた。王子はすべて立ち寄ることにしているので引き返すしかない。でも、かなり注意して歩いてきたのに不思議である。
100mほど引き返したら、右に案内板らしきものが見えた。その前には軽自動車が停まっている。行ってみたら、まさしく中村王子跡の案内板であった。ここには石碑などはなくてこの案内板だけなのだ。私は今まで見てきた青の説明板あるとばかり思っていたので見逃したのだ。それに、前に停められて車のせいでよく見えなかったこともある。
神社に引き返して鳥居の前に立つと、そこには川辺王子跡の石標があった。中村王子ではなくて直前に寄った川辺王子なのだった。でも、この神社では川辺・中村の二つの王子が合祀されているらしい。
神社の入り口には「境内には熊野古道のための休憩所がある」という案内もあった。期待して、長い参道を歩いて行くと、ベンチ・テーブルの休憩所があった。東屋のような屋根のあるところを期待していたのだが…。
神社の拝殿の横にはコンクリート床のスペースがあったので、ここにテントを張ることにした。そうと決めたら、神社から見える大規模スーパーに買い出しに行くことにした。空身で歩いて行くと、マクドの看板が見えた。夜が更けるまで、マクドで今日の記録の打ち込みをすることに決めた。一旦引き返して、ザックを背負って買い出しに出かけた。


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