住吉大社→津守王子→後鳥羽天皇行宮跡→大和川→境王子→方違神社→反正天皇陵→向泉寺閼伽井跡→仁徳天皇陵→南宗寺→石津神社

大阪市街地の南下を続け、大和川を渡って堺市に入る。この区間では摂津国の一宮住吉大社を通るのだが、さすがに見所いっぱいの神社である。

堺市では日本最大の古墳仁徳天皇陵のすぐ横を通る。視界には収まりきれないほどの大きな古墳であった。



南海電車の踏切を渡る


池田屋本舗


境内の大楠


住吉大社の本殿


津守王子のある墨江小学校
 住吉大社とE津守王子

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2010年3月10日

路面電車の帝塚山四丁目駅を右に見て、少し路地を行って右折、南海電車の踏切を渡る。この先も路地のような道を行くのだが、由緒ありそうな楼門があった。十三佛宝泉寺という表札がかかっていて、中には小さな多宝塔も見える。でも、境内への立入は禁止であった。
この少し先に池田屋本舗があった。あまりにも風格があるので調べてみたら、400年もの歴史を誇る味噌の老舗なのだ。名物の「住之江味噌」は100年以上変わらぬ手法で造られていて、国の有形文化財にも指定されているのだ。店に入ってみたかったがシャッターは閉まっていた。
池田屋本舗の四つ角を右折して住吉大社に向かう。
摂津国一宮という大きな神社で、全国に2300社もある住吉神社の総本社なのだ。
東の門から入ると、すぐに巨木がそびえ立っていた。これは樹齢800年という「夫婦楠」であった。確かに根本で二本に分かれてそびえ立っている。この巨木のすぐそばには楠君社という神社があった。
私は裏門から入ってしまったようで、ここは本殿の後ろである。正面に回り込むと立派な社殿で、表札には「第一本宮」とかかれてていた。住吉大社には第一本宮から第四本宮まで4つの社殿があるのだ。第一本宮から参道を行くとすぐに鮮やかな朱の社殿がある。これが第二本宮で、鮮やかに塗られているのは本殿で、回り込むと落ち着いた感じの拝殿である。拝殿は渋い色なのだが、本殿は鮮やかな朱なのだ。この先には第三本宮と第四本宮が並んでたっていた。
この先に朱の門があって、これをくぐって外に出ると石段の下に太鼓橋が見えた。これは住吉大社のシンボルのような橋で、淀君が寄進したのだそうだ。
境内に引き返して熊野古道に戻る。境内を行くと、この住吉大社にも石舞台があった。慶長年間に豊臣秀頼によって奉納されたもので、厳島神社・四天王寺と並んで日本三舞台の一つなのだ。これも重要文化財である。
東の門を出たすぐのところに大きな石灯籠があって、そのそばに小さな社がある。「大歳社」といって、大阪商人の間では集金の守護神として信仰を集めているのだという。「初辰まいり」の赤い幟がいくつもたっていた。

古道を行くと、熊野街道の石標があって、八軒茶屋から10kmと書かれていた。やっと10kmを過ぎたのだ。時間は13時半を過ぎていて、かなり疲れてきた。
このすぐ先に「津守王子蹟」だという墨江小学校があった。注意しながら歩いて行くと塀の中に「津守廃寺跡」石標がたっていた。津守王子とは書いていないのだが、ここで間違いないようだ。



 F境王子

後鳥羽天皇行宮跡の石碑


熊野古道の石碑があった


堺市に入った


この先、古道から少し外れるのだが、後鳥羽天皇行宮址が残るという止止宮支比売命神社に寄ることにした。ガイドブックでは沢ノ町駅の近くとなっているのだが、どう探しても見つからなくて、大通りに出てしまった。これはもうあきらめるしかないかと思いながら行くと神社があった。これが止止宮支比売命神社であった。
本殿の後ろに回り込むと広場があった。その奥に大きな石がいくつもおかれて、石標がったている。これが
後鳥羽天皇行宮址であった。後鳥羽天皇は熊野参拝が大好きで、29回も熊野に詣ているのだ。ここには「遙拝所」と刻まれた石碑もあった。
熊野古道に戻って街中を歩いて行く。古い街道の面影が残っていて、熊野古道の石碑もが立っていたりする。
どんどん歩いて行くと、道は大和川につき当たる。土手の上には地蔵堂があった。雲上地蔵尊と書かれていた。
土手を西に歩いて行って、遠里小野橋で大和川を渡る。橋を渡ると堺市であった。

この広い道から左折して浅香山駅で踏切を渡り、広い道を南に行くと、高い塀が長く続いている。これが大阪刑務所であった。
刑務所の前の信号で右折する。路地を少し行くと児童公園があって、その真向かいに境王子跡の石碑がたっていた。



 仁徳天皇陵

方違神社


閼伽井跡


歩道橋から仁徳天皇陵を見る


仁徳天皇陵周遊路を行く


境王子の前で左折、南に向かって歩いて行く。
住宅の中をまっすぐに行くと、正面に神社の杜が見えてきた。これが方違神社である。摂津・河内・和泉国の境にあることから、中立で方位のない聖地ということになっているのだ。

神社の境内に入ると、右に大きな池が広がっているのが見えた。これは反正天皇陵であった。大きい。
神社にお参りしてから、真っ直ぐに進んで東の鳥居をくぐって外に出る。
あとは反正天皇陵に沿って歩いて行ったらいいのだが、ここで道を間違えてしまった。「てくてくロード」という古墳巡りの歩道があるのだが、これに従って歩いていたら、いつの間にか熊野古道から離れてしまった。
雨が強くなって、泣きっ面になってしまう。住宅の中の道をカンを頼りに歩いて行ったら、向泉寺閼伽井跡に着くことができた。道は間違っていなかったのだ。
向泉寺というのは聖武天皇の命によって行基が建立した寺で、行基は寺を建てるに当たって井戸を掘ったのだが、それが閼伽井である。

この先も道はよくわからなかった。傘を差して、地図を確認しながら歩いて行くと、広い道に出た。右に歩道橋が見えるので、これだろうと思って歩道橋を渡った。歩道橋は南海線と国道の上を越えるのだ。歩道橋の上から見たら、すぐそばに見える池は古墳の濠だということがわかった。これが日本最大の前方後円墳「仁徳天皇陵」なのだ。全体を見渡すことができないほどの巨大さである。
歩道橋から降りて、古墳の濠に沿って歩いて行く。

この道は長かった。それほど巨大だということなのだが、雨の中を歩くのはけっこうきつい。
途中、万葉歌碑がたっていた。
 ありつつも 君をば待たむ うち靡く
 わが黒髪に 霜の置くまで

仁徳天皇の皇后が詠んだ歌である。
この付近は公園の遊歩道のようによく整備された道で、途中には「銅山古墳」があった。古墳ということだが、その形は一里塚のようであった。
万葉歌碑の先で、ようやく広い道に出た。これが御稜道で、「歴史街道 熊野へつづくみち」の標識がたっていた。




 南宗寺と石津神社

堺の環濠


南宗寺山門


高速の高架の下を渡る


石津神社


マクドが見えた


高速道路の高架をくぐると、その先には掘割りがあった。これはかって堺の町につくられて環濠なのである。でも、きれいに工事されたもので昔の面影はない。
ここから南宗寺に向かった。道がよくわからないのだが、これもカンで歩いていったら、偶然、寺の東門の前に出た。

この寺は戦国時代、堺を支配した三好長慶によって建てられたのだが、大阪夏の陣で焼失。でも当時の住職だった沢庵によってすぐに再建されたのだ。
東門から境内に入り、ぬかるみに気をつけながら歩いて行くと、仏殿があった。でも、その奥は塀で囲われていて、中に入ることはできない。拝観受付は
16時までなのだが、もう1620分になっているのだ。中に入るのはあきらめて、山門を見に行った。かわいらしいが重厚な感じのものであった。
来た道を引き返す。大通りに出て、これを西に向かって歩いて行く。途中で左折するのだが、その曲がるところがわからない。堀にかかる赤い橋があって、その名前を確認したら、山之口橋、ここで曲がるんだと確認できた。
南に歩いて行き、高速の高架の下にある陸橋で国道を渡る。この先、住宅の中を歩いて行くのだが、再び広い道に出たところで、また道がわからなくなった。広い道を横断するところには「石津神社北」という道路標識がある。これは神社が近いと思って車道を渡った先の森を目安に歩いていったのだが、どうしても神社は見つからなかった。雨は降るし、道はわからないしで、困りはててしまった。
ちょうど通りかかったおばさんに石津神社のことを聞いたら親切に教えてくれた。広い道を渡らずに、この道をまっすぐ行ったらよかったのだ。すぐに神社は見つかった。この神社は日本最古のえびす社なのだそうだ。
境内には樹齢1000年という楠の巨木が聳えていた。

広い道を歩いて行く。途中から左の細い道に入ると、熊野街道の石柱があった。これで間違いないと、安心して歩いて行く。ガイドブックにある戎橋を見つけたところで、右の国道にマクドナルドの看板が見えた。もう、朝から歩きづめなので、マクドで休憩することにした。
時間は17時半を過ぎていた。


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