松畑茶屋跡→中辺路・伊勢路分岐→万歳峠→一遍上人名号碑→楊枝の渡し→三和大橋→楊枝観音堂→楊枝川銅山跡→夕日の丘公園→明倫館学校跡→矢の川

いよいよ伊勢路本宮道に入った。万歳峠を越えて下ってゆくと熊野川にぶつかる。ここが楊枝の渡しで、昔はここで川を渡ったのだが、今は3km下流の橋まで遠回りするのだ。この日は寄り道をしすぎたためにテントを張る場所が見つからなくて、緊急に廃校の校庭に泊まることになった。

 松畑茶屋跡から一遍上人名号碑へ

ほとんど道の真ん中にテントを張った


伊勢路・中辺路の分岐


一遍上人名号碑

BACK 熊野本宮から松畑茶屋へ

20101127

昨日は暗くなって着いたために、ほとんど道の真ん中にテントを張ってしまった。でも、さすがに真夜中に熊野古道を歩く人はいないので迷惑をかけることはなかった。朝、コーヒーカップを片手に周りを散策したら、松畑茶屋の痕跡を示す石碑をいくつか見ることができた。
テントを撤収して歩き始めたのは
85分である。

10分ほど歩くと、万歳峠(本宮道)と小雲取越(中辺路)の分岐があった。以前はここから小雲取越えに向ったのだが、今回は本宮道を行くのだ。
まず万歳峠を越えなければいけない。杉や檜の林の中を登って行く。道には苔むした石畳が残っていて、いかにも熊野古道といった感じだ。
分岐から1時間ほどで万歳峠に着いた。説明板がたっているだけで、それによるとここは標高414.7mなのだ。
峠から下って行くと苔に覆われた石垣が現われ、そのすぐ先で車道に出た。そこには指導標がたっていて、「楊枝の渡し」には右に行くのだ。でも、左100mに「一遍上人名号碑」があるという。100mくらいなら寄って行こうと思う。アスファルトの坂道を上って行く。とても100mとは思えない距離であった。重いザックを背負って急な坂道を上るのはきついので、道ばたに放り出してしまった。この重いザックを盗んでゆく人なんていないだろう。
空身になって
200mほども歩いたが名号碑はなくて、引き返そうかと思ってしまった。でも、ここまで来たのだからと、もう少し…と思って行ったら、右の林の中に石碑と石仏がたっているのが見えた。これが一遍上人名号碑であった。あきらめなくてよかった。



 楊枝の渡し場から楊枝薬師堂へ

一遍上人名号碑の説明板があった


ウォータージェット乗り場


熊野川に沿って行く


三和大橋を渡る


楊枝薬師堂


道ばたに放り出したザックを回収して分岐に戻った。ここからはひたすら車道歩きなのだ。
カーブを繰り返して下って行くと、「国道まで
2.8km」という標識があった。この標識は所々にたてられていて、道が正しいことが確認できる。道ばたに「一遍上人名号碑の塚」という説明板がたっていた。さっき見た石碑のことだと思うのだが、どうしてこんなところに説明板があるのかと不思議に思ってしまった。
道が平坦になって、小さな集落をいくつか抜けて行くと、突然行く手に車が行き交う国道が見えてきた。
国道渡ると、その向うが熊野川であった。そこには「ウォータージェット」の舟乗場があった。大型観光バスが停まっていて、観光客であふれている。地図で確認すると、ここが楊枝の渡し場なのだ。大きな石碑がたっているので、楊枝の渡しの石碑かと思ったら、与謝野晶子の文学碑であった。裏に回り込むと大きな文字で「熊野川」と刻まれていた。渡しの跡ってどこなんだろうと探してみたが、その説明板や古い石碑などを見つけることはできなかった。
昔の熊野古道は楊枝の渡しで熊野川を渡ったのだが、今はここから3km下流の三和大橋で渡るしかないのだ。すごく遠回りすることになる。ここにあるウォータージェットは対岸に渡るのではなくて上流の瀞峡を観光するものなのだから、遠回りでも三和大橋まで行くしかないのだ。
熊野川を左に見ながら国道を歩いて行く。ちゃんと車道を隔てた歩道が続いていて、途中にはベンチが置かれた休憩広場もあった。20分ほど歩くと、アーチが3つ連なる橋が見えてきた。これが三和大橋である。橋の少し手前には六地蔵がたっていて、少林寺という寺もあった。
橋を渡って、こんどは熊野川を上流に引き返して行く。
20分ほどで、「板屋12km」という車道の分岐があった。熊野古道は右折して板屋に向うのだが、私は直進して楊枝薬師堂に立ち寄ろうと思っている。
熊野川を挟んだ対岸にウォータージェットの乗場を見て、さらに歩いて行くが、なかなか薬師堂が現われない。ちょうど通りかかったおばさんに訊いてみたら、さらに300mほども歩かなければいけないのだという。寄り道は止めておけばよかったと悔やんだが、ここまで来て引き返すわけにもゆかない。道ばたにザックを放り出して歩いて行くことにした。
道ばたに六地蔵がたっていて、その右が公園のように整備されている。この中に御堂の屋根が見えた。ここが楊枝薬師堂であった。紅葉がきれいであった。



 夕日の丘公園へ

分岐に戻った


銅山で栄えたという集落


ここで左折する。直進は布引の滝


夕日の丘公園の展望台


楊枝薬師堂から分岐に引き返して行くと、熊野川を瀞峡に向うジェット船が走って行くのが見えた。

ザックまで戻ったところで休憩。1140分になっていた。
分岐から板屋へはひたすら車道を歩いて行くのだ。右に流れているのは熊野川に注ぎ込む楊枝川である。
川に沿って
40分ほど行くと、道ばたに「楊枝川銅山史跡」の案内板がたっていた。この鉱山の歴史はすごく古いのだが、昭和9年に石原産業が事業を継承してからけっこう繁栄したらしい。でも、昭和53年に閉山となっている。
いろいろ鉱山の遺跡が残っていて、寄ってみたい気もしたがすごく時間がかかりそうなのであきらめた。
案内板から15分ほど歩いたところには鉱山史跡の一つである「延元文字」の入口があった。
さらに15分ほど行くと集落の中に入って行く。ここで出会ったおばあさんに道を訊いたら、かっては鉱山ですごく栄えたのだという。歩いて行くと鉱山の宿舎であったらしい建物も並んでいた。
集落を過ぎて5分ほど行くと金鉱跡という標識があった。川向こうの岩のわれめが金鉱跡と書いてあるのだが、目を凝らしてもよくわからなかった。
さらに10分ほど行くと国道311号への分岐があった。直進すると布引の滝である。私は滝が大好きなので立ち寄りたいのだが、時間も遅くなっているのであきらめた。
このT字路には熊野古道の指導標があった。道が間違っていないか心配になっていたのだが、これで安心。指導標には「夕日の丘まで
4.2km6000歩)」と書かれていた。
杉林の中に舗装道が続く。10分ほど行くと、突然、熊野古道の指導標がたっていて、出口・入口と書かれている。これは車道が大きくカーブして続いているのでショートカットする道なのだ。でも、そのためには小さな峠を越えなければいけない。アップダウンはいやなので、車道をそのまま行くことにした。
行く手に展望台が見えてきた。ここが峠の上のようである。
この展望台に上ると下には公園が広がっていた。ここが夕日の丘公園であった。東屋も見えて、ここでテントを張ってもいいか…と思ったが、水がない。時間は15時になっているが、もう少し歩けそうだ。それにここからは下りになるはずである。



 夕日の丘から矢の川へ

明倫館学校跡地


国道311号線との分岐


校庭の片隅にテントを張った


峠から少し下ったところに明倫学校跡地の案内板があった。明治
9年に始まり昭和45年廃校になったという。明治からこんな山の中に学校があったのかと不思議に思ってしまう。
下りになったので、古道のショートカット道を行くことにした。苔むした石畳が残る道であった。でも、この古道歩きは1km余りで終わってしまって、また車道に出てしまった。そこには次の入口まで1.6kmという指導標がたっていた。
鬱蒼とした杉林の中にアスファルト道が続いている。途中、枯れてしまった古木の横に石積みの祠があった。中を覗いたら石仏、よくみたら庚申が祀られていた。

アスファルト道を緩やかに下って行って、国道311号との分岐に着いたのは1615分、日が暮れ始めていて、そろそろ今日の宿泊場所を探さなければいけない。でも、この先は集落に入っていって、こんなところでテントは張れない。焦ってきた。落ち着くためにバス停の前のベンチに座って自販機で買ったジュースを飲んだ。時間は17時になった。この先に矢の川大橋のバス停があるはずなので、そこまで行くことにした。橋の下にテントが張れるかもしれない。
歩いて行くとしだいに暗くなってきた。左に学校の校庭をみて、300mほど行くと矢の川大平バス停に着いた。でも、とてもテントは張れそうもない。そこで、さっき見た校庭に戻ってみた。学校は廃校で校庭は使われていないようなので、校庭の片隅にテントを張ることにした。テントを張って、中に落ち着いたら、あたりは真っ暗であった。


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