東海自然歩道 奈良の道


天理→石上神社→内山永久寺→夜都岐神社→竹之内環濠集落→衾田御陵→長岳寺→崇神天皇陵→景行天皇陵→箸墓→ホノケ山古墳→桧原神社→玄賓庵→狭井神社→大神神社→平等寺→海柘榴市→万葉集発祥の地→長谷寺駅

山の辺の道は飛鳥と奈良を結んで開かれた日本一古い官道で、現在、特に整備されているのがこの日歩いた天理〜桜井なのだ。
古墳や古寺・古社をめぐる私の大好きな道である。だから、私は何度も歩いているのだが、その都度、新しい感動がある。

大神神社

 天理から夜都岐神社へ
杣之内火葬墓の記念碑


石上神社に着いた


桜満開の道を行く


内山永久寺跡の池


夜都岐神社

BACK 奈良から天理へ


2003年4月6日

8時に家を出て、天理に着いたのは940分であった。
だいぶ遅いスタートである。駅前に記念碑のようなものを見つけた。説明文を読んだら、「杣之内火葬墓」出土の海獣葡萄鏡と書いてあった。
駅からアーケードの商店街を歩き、天理教大神殿の前を通って、石上神社に着く。
大鳥居の前には大きなバスが
2台停まっていて、そこからウォーキングスタイルのじいさんばあさんがゾロゾロと降りてくる。今日、私が歩こうとしているコースは「山の辺の道」といって、東海自然歩道の中でもすごく人気のある区間なのだ。
こんな大団体と一緒に歩くことになっては大変なので、彼らが出発する前に歩き始めた。
神社の杜(もり)を抜けると、すぐに田畑の中の道に出て、いかにも大和路らしい風景が広がっている。
山辺の道は、昔、大阪に住んでいたときに何度も歩いているので、今回は東海自然歩道のコースを少し外れるが、「箸墓」という古墳に立ち寄ろうと思っている。これは、邪馬台国の女王、卑弥呼の墓といわれる古墳なのだ。
ただし私は、邪馬台国は九州にあったと思っているので、この古墳が卑弥呼の墓だとはまったく信じていない。このページでは邪馬台国、古代史のことでめちゃくちゃに脱線することになると思うがご容赦いただきたい。
ともかく、天気もよくて、遠くの山々には満開の白い桜の花がいくつも見える。
いい季節である。
このうららかな風景の中を歩いて行くと、まず、「内山永久寺跡」に着く。今残っているのは池だけで、石碑がいくつかたっている。その中に管御所跡の石碑があった。南北朝動乱のとき、後醍醐天皇が一時この寺に立ち寄ったのだ。
池の畔に芭蕉の句碑が立っていた。

 うち山や とざましらずの 花ざかり

10分ほど歩くと、道は直角に曲がって、平野部に下って行くようになる。行く手には小高い丘が二つ見えるのだが、これは古墳である。ともかく、このあたりの木に覆われた小山はほとんど古墳といっていい。
「夜都岐(やとぎ)神社」に着く。
鳥居のすぐ傍に桜の木が立っていて、それが満開であった。すばらしくきれいである。
その桜の花の下をくぐって、本殿の前まで行く。
拝殿は茅葺きであった。こんな拝殿というのはすごく珍しいと思う。



 竹之内集落から長岳寺へ
竹之内集落へ向かう


萱生の環濠集落


衾田御陵


長岳寺の楼門


長岳寺本堂


長岳寺の石棺仏(弥勒如来)

夜都岐神社を後に、竹之内の集落に入って行く。
竹之内の集落は「環濠集落」であるという。戦国時代に村を守るために、集落を堀で囲ったのである。その跡が今も残っているのだ。ただ、今は村のそばにある小さな溜め池という感じである。
ビニールハウスの畑の中を行く。このコースを歩いている人は本当に多くて、いかにも人気のコースである。
次に萱生の集落に着く。これも環濠集落で入口に池があった。これが環濠の跡で、すぐ右に小さな山見えた。これも古墳で「西山塚古墳」という。その斜面は石垣が組まれていて、みかん畑になっていた。
さて、この村の東、山に向かったところに「衾田御陵」がある。けっこう有名な古墳である。自然歩道からは少し外れるのだが、立ち寄ることにした。山側に向かって行き、村を抜けると木々に覆われた小山がある。これが衾田陵だった。細いあぜ道を歩いて古墳の裾まで行って、この古墳の裾に沿って歩いて行くと、正面拝所がある。そこには鳥居と衾田陵と書かれた石柱が立っていた。
この衾田陵に祭られているのは、継体天皇の皇后手白香(たしらか)皇女である。継体天皇は26代天皇なのだが、25代で天皇家は一旦途絶えて、ここで別の系統が入ってきたのではないかと言われている。その皇后の墓なのだ。
ここからはもと来た道には戻らずに、ショートカットして山道を下った。あぜ道を突っ切って、柿本人麻呂の歌碑に着く。
  ふすま道を 引手の山に 妹をおきて
   山路を行けば 生けるともなし


ここで自然歩道と合流した。
集落の中の細い道を何度も曲がって歩いて行くと「長岳寺」の前に出る。

ここには根上がり松があって、その根元には石仏が置かれていた。
山門をくぐる。すぐに境内かと思ったらそうではなくて、桜の並木の参道を少し歩き、突き当たりを何度か曲がって、ようやく長岳寺に着くのだ。
拝観料を払って、石段を登って行くと、正面に楼門が見える。なにかしら趣きのある門で、栞をみたら、これは平安時代のもので日本最古の楼門なのだそうだ。重要文化財である。
楼門をくぐると右に池があって、左が本堂である。
ここの仏像は阿弥陀三尊で藤原時代後期の作である。特筆すべきは、この仏像は日本最古の「玉眼」を用いていることである。玉眼というのは、眼にガラス(水晶なんだろうけど)使っているということである。
脇侍は観音と勢至なのだが、この形は半跏像である。全体は金箔がはげてしまって、黒くなっている。ともかくいかにも藤原時代らしい仏像で、宇治平等院の阿弥陀如来によく似ている。須弥壇にはこの他に四天王像が立っていた。ただし、多聞天・増長天の2体だけである。
本堂を出ると正面には池が広がっていて、池の辺に立つ桜が満開ですばらしくきれいである。この時期のお寺巡りは最高だ。
最後に、これも重要文化財の弥勒石仏を見に行くことにした。これは裏山を少し登ったところにある。急な階段を登ると高さが2mほどの石棺仏が立っていた。鎌倉時代のものなのだが、この石材は古墳の石棺を用いているのだそうだ。墓荒らし…と思ってしまう。
しかし考えてみると、飛鳥の酒舟石だって楔で削られた跡があった。これは豊臣時代にお城の石垣にするために削り取られたのだ。今のように、文化財保護の考えはなかったのだからしかたがない。



 崇神天皇稜から箸墓へ
トレイル青垣(休憩施設)


崇神天皇御陵


神籬と景行天皇御陵


三輪山を振り返りながら行く


箸墓の池が見えてきた


箸墓


長岳寺を後にして最初の山門から左に曲がると、すぐに新しい建造物がある。
これが「トレイル青垣」で、山辺の道を紹介している学習・休憩施設なのだ。
中に入るとたくさんの人が食事をしたりしていて、テーブルは満席であった。入り口のベンチが空いていたので、ここで私も昼食をとることにした。
ここには親切な管理人さんがいて、山辺の道のいろんなことに答えてくれる。イラストのガイドマップがあって、これがすごくわかりやすい。山辺の道歩くのだったら、ぜひここに立ち寄ったらいい。推薦。
ここを出るとすぐに大きな古墳が見える。崇神天皇陵である。すばらしく大きな前方後円墳で、壕が巡らされている。少し登って、壕端に出る。この壕に沿って歩いて行くと、この古墳の大きさを実感することができる。
崇神天皇は第十代の天皇で、私が今回ぜひ立ち寄りたい思っている「箸墓」の倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)と多いに関係のある天皇である。
この古墳の一番山側を縁に沿ってカーブして行くと、そこにもう一つ古墳がある。櫛山古墳である。形がひどく細長い古墳で山につながっている。
崇神天皇陵を後に、いかにも大和路らしい道を行くと、行く手には大きな古墳が見えてくる。景行天皇陵なのだ。
景行天皇というのは日本武尊(やまとたけるのみこと)の父である。日本武尊の物語は記紀に書かれているのだが、これは天皇家が日本各地の平定を進める上での英雄たちの物語を、日本武尊という一人格に集約したものだという説がもっぱらである。
景行天皇陵を振り返りながら歩いて行くと「神籬(ひもろぎ)」の説明板があった。後ろには景行天皇陵が見えた。
ここから15分ほど行くと平野の方に下る広い道に出た。私はここで東海自然歩道を離れて「箸墓」に向かうことにする。
自分がいる場所が、地図とどうも一致しないのだが、ともかくカンで歩いて行く。
南北に走る広い道路に出た。この国道を越えたら巻向駅があると思うのだが、どうもよく分からない。この国道の左は橋架になっていて、JRの線路を越えているようである。これでどうやら、地図での自分の位置が確認できた。この橋架を越えて左に行ったら箸墓があるはずである。
橋架を登って行くと、展望が広がって、たしかにこんもりと盛り上がった丘が見える。これが箸墓のようである。
歩いて行くと、箸墓のすぐ手前に案内板があって、そこに箸墓と書かれていた。
古墳に沿って歩いて行くと、大きな池が見えてきた。これは多分、古墳を取り巻いていた壕なんだろうと思う。
壕のほとりを歩いて行くと、新しい石碑が立っていた。この池を補修した記念碑なのだ。
実はこの補修のときに重要な発掘があったのである。従来、箸墓古墳は4世紀後半、古墳時代のものとされてきたのだが、このときの発掘品を「放射性炭素14年代」測定をした結果、箸墓築造は240〜260年とされたのだ。この年代は卑弥呼の時代に重なるので、卑弥呼の墓の確率が高いというわけだ。

私は、この箸墓が卑弥呼の墓とは思わない。これは立派な前方後円墳で4世紀以後のものとしか考えられないのだ。邪馬台国をこの大和とする論者は倭迹迹日百襲姫こそ卑弥呼であるとしているのだが、私はその説にうなずくことはできない。

               →私の邪馬台国

古墳の正面にまわった。
宮内省が管理する御陵そのもので、柵の中には石柱が立っていて、倭迹迹日百襲姫と書かれている。この古墳をほぼ半周して、そのまま山に向かう道を行く。



 ホケノ山古墳から狭井神社へ
ホケノ山古墳


山の辺の道に合流した


桧原神社本殿


玄賓庵の山門


玄賓庵の額


狭井神社に着いた

JRの線路を越えて少し行くと神社があって、そこに、このあたりの観光案内板が立っていた。
これによるとすぐ近くにホケノ山古墳があるということがわかった。
この古墳は、大和における最も古い古墳といわれて、最近の発掘調査で、卑弥呼の時代に造られたとされているのだ。(私は安本美典氏のいうように、年代測定に重大な作為があると思っている)
ともかく大和最古の古墳を見逃すわけにはいかない。
住宅地の中を行くと、左に少しだけ入ったところに古墳があった。
小高い丘になっていて、その一部は石が敷き詰めてあった。この古墳も前方後円墳である。ところが前方部は道路で削り取られてしまっている。そこに石を敷き詰められて復元してあるのだ。
ちょっとした公園になっていて、東屋が建てられていた。古墳の左が池の跡のようである。
ホケノ古墳の調査が行われたのは1995年のことで、この時、壕から発掘された土器によって、この古墳が3世紀半ばのものと判断されることになったのだ。(土器の形式によって年代推定をしているのだが、これも無理に年代を古くしようという作為があるのだ)
古墳の上に登ってみる。すぐ近くに民家が並んでいるし、畑やビニールハウスが隣接している。でも、これが大和における最古の古墳なのだ。
ヒケノ古墳から、まっすぐに東に向かう。山に向かって歩いて行くのだが、少し傾斜がきつくなったな…と思ったときに東海自然歩道に合流した。

正面には神社があって、これが「桧原神社」である。天照大神を祀っているのは伊勢神宮なのだが、伊勢神宮ができるまでは、この檜原神社に天照大神が祀られていたのだ。このため、元伊勢ともいわれる。ともかく古い歴史のある神社である。
東海自然歩道を10分ほど行くと、白い長塀がある。ここが「玄賓庵」。ここの不動明王は重要文化財なのだが、見ることはできなかった。
このあたりはもう三輪神社の神域である。
森に囲まれた細い道を行くと「狭井神社」に着く。
この神社には御神水が沸いている。このおいしい水で酒が造られて、だから三輪神社には酒が献上されていたりする。
本殿の左奥にこの御神水がある。飲んでみた。けっこううまい。
さて、この神社の境内には山に向かって登って行く道がある。神社の人に訊いてみると、これが三輪山の登山口なのだ。登りたいといったら、断られた。時間はもう3時を過ぎていて、受付は終わったのだそうだ。登りには2時間かかるから下りの時間も入れると帰ってくるのは6時になってしまうのだそうだ。
神社の人には、私がいかにも胡散臭そうに見えるようで、この山はあくまでも信仰の山で、単なる登山とかハイキングのための山ではないと、しっかりと念をおされた。
私は東海自然歩道を歩くときも、ばりばりの登山姿である。このかっこうでは、神に対する敬虔さは少しも感じられないのかもしれない。



 大神神社から長谷寺へ
大神神社


金屋の石仏


初瀬街道


  初瀬川


近鉄長谷寺駅

さて、大神神社に着く。
大きな神社である。この神社の御神体は後ろに聳える三輪山なのだ。
さらに森の中の道を行くと、平等寺がある。聖徳太子ゆかりの寺なのだそうだ。
ここから少し行くと崇神天皇の磯城瑞籬(しきみずがき)宮があるというので寄ってみた。
林の中に小さな神社があって、その隅に磯城瑞籬宮と刻まれた石標がたっていた。
森の道から抜け出すとすぐに金屋の石仏があった。
鉄筋コンクリートの立派な収蔵庫に収まっていた。
中をのぞくと、石仏は二体あって、釈迦如来と弥勒如来である。
お堂の前には休憩用のベンチが置かれていたので、ここで一休み。
民家の間の細い道を行くと、昔の初瀬街道に出る。宿場町のような古い家が並んでいた。
この街道に沿って少し行くと、「海柘榴市(つばいち)観音」への指導標があった。
民家の間の細い道を何度か曲がって行くと、正面に石段があって、それが海柘榴市観音堂のようである。ところがそのお堂は、まったくお堂らしくなくて、なんか集会場のような建物なのだ。狭い敷地の中に、屋根のある休憩施設があって、トイレも隣接していた。
お堂の中を覗いてみると、黒い石仏がみえる。これが有名な海柘榴市観音なのである。造りはものすごく素朴なもので、名のある仏師の造ったものとはまったく雰囲気が違う。これはこれで、なにかしら魅力ある仏像である。
さて、海柘榴市観音を後にしてもとの分岐にもどり、真っ直ぐに行くと初瀬川の土手に出る。この土手に沿って歩いて行くと、「仏教伝来」の石碑があった。
あとは車がさかんに行き交う国道を、ただひたすら歩いて長谷まで行くだけである。
この区間にほとんど見るべきものはないのだが、一つだけ、雄略天皇の「泊瀬朝倉宮跡」という神社があって、そこには万葉集発祥の地という石碑が立っていた。
国道を行くと学校があって、ここから右の道に入って、近鉄長谷寺駅を目指す。
駅に着いたのは5時少し前であった。



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     大神神社の写真は2008年11月に撮影したものです




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