夜都岐神社を後に、竹之内の集落に入って行く。
竹之内の集落は「環濠集落」であるという。戦国時代に村を守るために、集落を堀で囲ったのである。その跡が今も残っているのだ。ただ、今は村のそばにある小さな溜め池という感じである。
ビニールハウスの畑の中を行く。このコースを歩いている人は本当に多くて、いかにも人気のコースである。
次に萱生の集落に着く。これも環濠集落で入口に池があった。これが環濠の跡で、すぐ右に小さな山見えた。これも古墳で「西山塚古墳」という。その斜面は石垣が組まれていて、みかん畑になっていた。
さて、この村の東、山に向かったところに「衾田御陵」がある。けっこう有名な古墳である。自然歩道からは少し外れるのだが、立ち寄ることにした。山側に向かって行き、村を抜けると木々に覆われた小山がある。これが衾田陵だった。細いあぜ道を歩いて古墳の裾まで行って、この古墳の裾に沿って歩いて行くと、正面拝所がある。そこには鳥居と衾田陵と書かれた石柱が立っていた。
この衾田陵に祭られているのは、継体天皇の皇后手白香(たしらか)皇女である。継体天皇は26代天皇なのだが、25代で天皇家は一旦途絶えて、ここで別の系統が入ってきたのではないかと言われている。その皇后の墓なのだ。
ここからはもと来た道には戻らずに、ショートカットして山道を下った。あぜ道を突っ切って、柿本人麻呂の歌碑に着く。
ふすま道を 引手の山に 妹をおきて
山路を行けば 生けるともなし
ここで自然歩道と合流した。
集落の中の細い道を何度も曲がって歩いて行くと「長岳寺」の前に出る。
ここには根上がり松があって、その根元には石仏が置かれていた。
山門をくぐる。すぐに境内かと思ったらそうではなくて、桜の並木の参道を少し歩き、突き当たりを何度か曲がって、ようやく長岳寺に着くのだ。
拝観料を払って、石段を登って行くと、正面に楼門が見える。なにかしら趣きのある門で、栞をみたら、これは平安時代のもので日本最古の楼門なのだそうだ。重要文化財である。
楼門をくぐると右に池があって、左が本堂である。
ここの仏像は阿弥陀三尊で藤原時代後期の作である。特筆すべきは、この仏像は日本最古の「玉眼」を用いていることである。玉眼というのは、眼にガラス(水晶なんだろうけど)使っているということである。
脇侍は観音と勢至なのだが、この形は半跏像である。全体は金箔がはげてしまって、黒くなっている。ともかくいかにも藤原時代らしい仏像で、宇治平等院の阿弥陀如来によく似ている。須弥壇にはこの他に四天王像が立っていた。ただし、多聞天・増長天の2体だけである。
本堂を出ると正面には池が広がっていて、池の辺に立つ桜が満開ですばらしくきれいである。この時期のお寺巡りは最高だ。
最後に、これも重要文化財の弥勒石仏を見に行くことにした。これは裏山を少し登ったところにある。急な階段を登ると高さが2mほどの石棺仏が立っていた。鎌倉時代のものなのだが、この石材は古墳の石棺を用いているのだそうだ。墓荒らし…と思ってしまう。
しかし考えてみると、飛鳥の酒舟石だって楔で削られた跡があった。これは豊臣時代にお城の石垣にするために削り取られたのだ。今のように、文化財保護の考えはなかったのだからしかたがない。
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