東海自然歩道 柳生街道



笠置駅→笠置寺→行場巡り→柳生下→家老屋敷→芳徳寺→一刀石→疱瘡地蔵→大柳生

出発地の笠置山は巨岩が重なる修験道の行場になっているのだが、太平記の舞台でもある。
自然歩道は笠置から柳生に向かう。柳生街道とは月ヶ瀬から柳生の里を経由して奈良市街に至る道をいうのだが、笠置から柳生のまでが最も柳生の見所が多い。


疱瘡地蔵の岩に彫られた石仏

 笠置山をめぐる
笠置山登山口


笠置寺山門


正月堂


大磨崖仏(全く線が消えている)


千手窟


ゆるぎ石


二の丸跡の休憩所

BACK 月ヶ瀬から笠置へ


2003年112

今日は東海自然歩道の笠置から奈良まで歩こうと思っている。去年の5月にポンポン山から東海自然歩道を歩き始めたのたが、今日、ようやく奈良県に入るのだ。
西向日から阪急烏丸まで行って、ここで地下鉄に乗り換える。知らなかったのだが、地下鉄と近鉄線は相互乗り入れをしていて、近鉄線にそのまま入って行くことができるのである。おかげで、笠置に着いたのは8時頃と、予想以上に早く着くことができた。
歩き始めると、まず目指すのは笠置山である。
笠置山といったら、ほとんど「太平記」のことしか思い浮かばない。後醍醐天皇は討幕の兵をあげて、ここに立てこもったのである。
駅から10分ほど歩くと笠置山登山道入り口に着く。そこには商店街の入り口のような派手なアーチが作られていた。これをくぐるとすぐに登山道の分岐がある。そこには笠置山観光ガイドの絵地図が立っていて、自然歩道は右に行くのだが、左の道には「行宮遺跡」がある。道は笠置寺の前で合流するので、この道を行くことにした。
ところが、この道はアスファルトの道で、めちゃくちゃに遠回りであった。イラストマップではわかりようがないのだが…。
期待の「行宮遺跡」へ行ってみたら、これは明治になってから笠置山の大きな岩に「行宮遺跡」の文字を刻み込んだだけのものであった。私は後醍醐天皇の行在所跡と勘違いしていたのだ。
ともかくすごい遠回りをしてしまって、笠置寺の前に着いたのは8時半過ぎであった。
笠置寺の中には「行場巡り」がある。これは修験道の行場で、鎌倉時代にかなり隆盛を誇ったらしいのだ。この行場巡りのコースの中に、日本最大という磨崖仏がある。これは是非見ておきたいではないか。
拝観受付には誰もいなくて、かってにお金を置いて入ってくれ、となっていた。300円をお菓子の四角い缶に入れて、栞を持って中に入る。
正月堂と呼ばれる本堂があって、その真向かいに磨崖仏が聳え立っていた。私はこの磨崖仏をすごく楽しみにしていたのだ。
ところが、その岩に線描されているはずの弥勒仏がまったく見えない。栞をよく読むと、何度もの戦火でその線描は消えてしまったのだそうだ。そんなバカなと叫びたくなるのだが、…しかたがない。
この磨崖仏の隣には大きな岩があって、これが「笠置き岩」である。
天武天皇が狩りにきて、この岩に笠を置いたのだそうで、それが「笠置」の語源なのだ。
さて、行場巡りをすることにする。この笠置山は大きな岩が累々重なっていて、そのため古くから修験道の行場として栄えたのだ。
行場巡りのコースは左周りにぐるっと一周してもとの場所に戻ってくることができる。まず、磨崖仏の前から少し下って行くと大きな岩の狭間に祠があった。これが「千手窟」。
少し行くと磨崖仏があった。これは明瞭に線描が残っている。これも弥勒仏なのだそうだ。
さらに進むと「胎内くぐり」があって、「太鼓岩」をみてから道は急な登りになる。

「ゆるぎ岩」、「平等岩」などを眺めてようやく山頂に着くと二の丸跡。ここは後醍醐天皇が幕府軍を迎え撃ったときの城郭の跡なのだ。
少し下ると展望台があって、木津川を見下ろすことができた。悠々と流れる木津川が一望できて、ずいぶん登ってきているということがわかった。
この広場の一角に「笛吹き岩」という大きな岩があった。戦のときにこの岩の上でほら貝を吹いたのだという。

少し行くと左に石段があって、その先で小さな磨崖仏を見つけた。その可憐さにけっこう感動してしまった。
後醍醐天皇が居を構えたという「行在所跡」に着いた。まるで御陵のような佇まいであった。

30分ほどで行場巡りを終えた。修験道の行者巡りというので、ずいぶん険しい道を想像していたのだが、普通の遊歩道のようなものであった。



 柳生の里へ
ゴルフ場に出てしまう


阿対の石仏


下柳生の里に入っていく


十兵衛杉


柳生家老屋敷


芳徳寺


天の立石


さて、ここから再び自然歩道を行く。
深い杉木立の中の道を行くと峠のようなところに出て、突然視界が開ける。
そこには立派なゴルフ場が広がっていた。
ゴルフ場の中に作られた真新しい車道を下って行く。下りきったところで道路と交わり、左が柳生に向かう道である。
ここからすぐに橋を渡って遊歩道に入ると石仏があった。これが「阿対(あたや)の石仏」である。
なぜか柳生街道には石仏が多い。笠置寺の修験者たちが、その道端に石仏を彫ったのためなのだろうか。
さて、小川に沿った道を少し行くとすぐに集落に入る。これが柳生下町で、いわゆる柳生の里というのはこのあたりをさすのである。

ここには「十兵衛杉」があるので、立ち寄ることにした。柳生十兵衛が旅立つときに植えていった杉なのだそうだ。集落から山側に登って行くと墓地があって、その上に十兵衛杉はある。ところが、この十兵衛杉はすっかり枯れてしまっていて、白くなった幹だけが聳えていた。
30年前、私がこの柳生街道を歩いたときはちゃんと葉が茂っていたと思ったが…。
昔、私が初めてこの柳生の里を訪れたときは、空前の柳生ブームの最中であった。というのはその年のNHK大河ドラマが、柳生宗矩を主人公にした「春の坂道」だったのだ。この頃からNHK大河ドラマの舞台が、その年の観光の目玉になるようになってしまったのだ。
今回は静かに柳生の里を巡ることができる。
さて次に訪ねたのが「柳生家老屋敷」。柳生の里の写真では必ず出てくる風景である。
この家老屋敷の隣にも古い家があったが、これは家老家の分家なのだそうだ。でも、観光化されてしまった家老屋敷よりもこちらの方が遥かに風情があるように感じてしまった。
細い路地を行き、学校の裏を通って再び国道に出ると「正木坂」というバス停があった。正木坂というと柳生の道場があったところである。
県道を渡って急な坂を登ると、途中に瓦葺きの大きな平屋の建物がある、これが正木坂道場であった。もちろん最近の建物である。
坂道を登りきったところに、柳生の菩提寺「芳徳寺」がある。
寺の門の前まで行ったが、中には入らなかった。
芳徳寺から引き返すと途中に分岐がある。右が私の登ってきた道で、左は「一刀石」と案内がある。一刀石というのは、柳生石舟斎が一刀両断にしたという大岩である。
せっかくなので見に行くことにした。ところがこれはけっこう遠かった。山の中にどんどん入って行く。
途中で中高年のハイキンググループとすれ違ったが、10人余りで賑やかだった。
15分ほどで古い神社の前に着く。「天の立石神社」である。
神社の手前に平たい石が二枚重なって立っている。これをしめ縄が囲んでいた。これが一刀石かとも思ったが、自分が写真で見た感じと違う。これは天の立石神社の御神体で、天の岩戸とされているのだ。
神社から少しだけ林の中に入ると大きな岩があって、それがきれいに割れている。これが一刀石であった。
今年のNHK大河ドラマは「武蔵」である。武蔵もこの柳生の地を訪れている。もちろん、吉川英治の小説の中での話しなのだが、さっきの正木道場を訪れ、柳生四高弟と戦ったりして、最後に石舟斎の庵を訪ねるのだが…。ともかくそんなわけで、今年は再び柳生の里が脚光を浴びることになるかもしれない。
どうでもいいことなのだが、私は吉川英治の「宮本武蔵」が大好きで、この小説は何度読み返したかしれない。小説の中の全シーンが頭の中に入ってしまっている。
この本を初めて読んだのは高校生のときで、夏休みのアルバイトでもらったお金のすべてをつぎ込んでこの本を買ったのである。そのときは六興社の発行する全6巻で、毎週もらうアルバイト料で1冊買えるのだが、それを1日か2日で読んでしまって、次が買いたくてしょうがなかったのを覚えている。



 大柳生散策
柳生八坂神社


山道に入る


おふじの井戸


南明寺


夜支布神社


さて、再び正木坂のバス停に戻って、柳生八坂神社の前を通って細い道を行く。再び国道に合流しそうになるがその直前に山に向かう細い道に入る。指導標がないとまったく気がつかない細い道である。
山道を15分ほど行くと、道の傍らの大きな岩に石仏が刻まれている。その後ろに東屋が作られていて、まわりこんでみると、これが「疱瘡地蔵」であった。
この岩に浮き彫りにされた地蔵尊の右下には文字が刻まれている。正長元年柳生徳政碑で、室町時代に年貢を免除してもらった云々と書かれた貴重なものなのだそうだ。
所々、石畳になっている山道を行く。峠を越えて下って行くと視界が開けて畑の中の道に出る。眼下に広がっているのが坂原の里である。
集落に入る少し手前に「おふじの井戸」があった。井戸の中を覗いてみたが、水は濁っていた。

集落の中を行くと、左に立派な造りのお堂が見えてきた。これが「南明寺」である。鎌倉時代の建物で、重要文化財に指定されているのだ。
寺の境内は狭くて、その一角に十三重の石塔が立っていた。京都、奈良にはなぜか十三重の塔が多いのだ。
さてここから再び田んぼの中の細い道を行く。
のんびり歩いていると、ゼッケンをつけて走ってくる人達がいる。何かと思ったら「オリエンテーリング」をしている人達なのだ。そう言えば、途中でいくつか固定ポストを見た。私はオリエンテーリングで地図と磁石の使い方を覚えたので、つい、がんばれと応援してしまうのだ。
集落の中のものすごく入り組んだ、曲がりくねった道を行く。指導標がきっちりしているおかげで迷うことはなかった。
ようやく集落を抜けると、行く手にこんもりした杜(もり)が見えてくる。これが「夜支布山口神社」であった。

夜支布と書いて「やぎう」と読む。これが柳生の語源なのだろうかと思った。神社にお参りをして林の中の道を行くと、再び集落の中に入って行く。このあたりが「大柳生」である。



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