東海自然歩道 滋賀の道 


京阪南滋賀駅→廃寺跡→近江神社→法明院→フェノロッサの墓→新羅三郎の墓→大津市歴史博物館→三井寺→観音堂→琵琶湖疎水→音羽山→幻住庵→石山寺駅→瀬田の唐橋→JR石山駅

琵琶湖に沿ってめぐる道である。大化の改新を行った天智天皇の滋賀の都から三井寺へと、すばらしい史跡の道である。さらに逢坂峠から音羽山にも登って、これを下ると松尾芭蕉の幻住庵がある。

三井寺仁王門.

 京阪南滋賀駅から近江神社へ
京阪膳所駅


南滋賀廃寺跡の礎石


気持ちのいい道


境内から楼門を振り返る

BACK 比叡山から南滋賀へ


2002年68

今日は家を出るのが9時になってしまった。
JRで膳所まで行って、ここで京阪電車に乗り換える。南滋賀に着いたのは
10時半頃になってしまった。
歩き始めるのがずいぶん遅くなってしまったので、少しあせってしまう。
郵便局の前を通って、民家の中の細い道を行く。途中指導標もあったが、町の中の道はけっこうわかりにくい。
まず、南滋賀廃寺跡に着いた。
公園になっていて、礎石が残っている。公園の奥には石碑が立っているのだが、廃寺とだけあって寺の名前が書かれていないのはその記録ないからで、それでも規模としては大きな寺院だったらしいのだ。
次に近江神社を目指すが、本当に道がわかりにくい。このあたりは史跡が多くて、東海自然歩道の他に滋賀県の立てた案内板もあって、道が錯綜しているのだ。
国道をトンネルでくぐると鳥居があって、これが「近江神社」の北口である。
静かな参道を行くと大きな駐車場に出て、観光バスが数台停まっている。バスからは観光客がたくさん降りてくる。この神社も観光地なのだ。
石段を登ると楼門があって、これを過ぎると広い境内。さらに石段を登って本殿に着く。
境内には日時計が2基置かれていた。
少し歴史の話になってしまうのだが、大化の改新をなした天智天皇は飛鳥からこの大津に遷都を行っている。667年のことである。このため、この大津付近にはそうした遺跡が数多く残っているのだ。

天智天皇が飛鳥で設置したという水時計はけっこう歴史的に有名で、それを記念してここに日時計が立てられているのだ。でも、日時計と水時計ではまったく違うと思うのだが…。
日時計と自分の腕時計で時間を確認してみたら、誤差は2〜3分くらいのものだった。すごい。



 法明院から大津市歴史博物館へ
法明院境内


フェノロッサの墓


フェノロサの墓碑銘


法明院山門に戻った




新羅三郎の墓


次のコースの道がわからなくて、境内を探し回った。境内の突き当たりに鉄の門が閉まっていて、その横に細い道があるのを見つけた。その道に入ると隠れるようにして指導標が立っていた。
ここからは二万五千分の一の地図をみながら行ったのだが、どうにも道がわかりにくい。
滋賀県の「歴史の道コース」の指導標に従って歩いて行ったら、皇子ヶ丘公園に着いた。
この公園の中でも道を失ってしまったが、地図と磁石でなんとか歩いて行く。東海自然歩道の指導標が見あたらないのだ。
歩いて行くと法明院の案内があって、ここにフェノロッサの墓があるらしい。その細い道に入ると、古ぼけた自然歩道の指導標があった。東海自然歩道もできてから30年もたっているのだから、昔の標識は本当に朽ちかけているのだ。
法明院は山の森に埋もれているようなお寺で、暗い樹林の中の石段を登って本堂の前に出る。その左に木戸がある。その中に入るときれいな庭園になっていて、さらに奥に進むと山に登って行く道がある。その道を少し登ると左にフェノロサの墓があった。
フェノロサといったら、明治の前期に日本にやってきたアメリカの東洋美術研究者である。この当時、西洋文化を重視するあまり、日本の伝統的な文化芸術が破棄されようとしていたのだ。そんな中で日本文化のすばらしさを諸外国に紹介してくれた人のがフェノロサである。
その頃の日本はひどい状態で、今では有名な浮世絵なんかがどんどん外国に流出していた時代なのだ。たとえば、奈良興福寺の五重塔なんかも二束三文で売りに出されたりしたというのだからすごい。

フェノロサで私の記憶している話は、法隆寺夢殿の救世観音のことである。救世観音は本来秘仏で人の目にさらされる事はなかったのだ。ところがこのフェノロッサが僧侶たちを脅しあげて、この秘仏の扉を開けさせたのだ。こいつってとんでもない奴だと思ってしまうのだが…。でも、そのおかげで今は年に一度の開帳日があって、我々もこの救世観音を拝観できるというわけである。
それでフェノロッサの墓なのだが、五輪の塔であった。外人墓地のような墓を想像していたのだがこれは意外だった。
法明院を出て、さらに山道を行くと新羅三郎の墓がある。これは土を盛り上げた塚であった。新羅三郎といったら武田家の祖先ではなかったっけ。
新羅三郎は源義家の三男で源義光のことである。
武田家には「御旗楯なし」という家宝があって、武田家の軍議の決定はこの御旗楯なしに誓うのだ。そして、この御旗楯なしは新羅三郎から伝わるものだというのだ。
ここから少し行くと舗装の道に出て、すぐに大津市歴史博物館の前に出た。

人がほとんど見えないので休館日かと思ったら、開館していた。私は歴史博物館が大好きで、地方に行ってこ博物館を見つけると必ず入ってしまう。
この博物館は最近できたもののようで、中がすごくきれいで、展示の仕方も新しい工夫がされている。
館を見てまわる。さすがに琵琶湖の展示が多い。
近江八景の掲示もあって、堅田の落雁、比良の雪、三井の晩鐘、瀬田の残照等をいうのだが、今日はこのうちの三井、石山、瀬田の3つを巡ることになる。



 三井寺
受付から参道を行く


本堂


灌頂堂


観音堂


博物館を後にするとすぐに三井寺である。
さすがにりっぱな堂塔伽藍で、まず入り口が大きな仁王門。これをくぐってまっすぐに行くと本堂がある。本堂の横にお堂があって、この中からゴボゴボと水の湧き出る音がする。これが閼伽井屋(あかいや)である。傍に説明板があって、扉の上に彫られている龍が左甚五郎の作なのだそうだ。この竜は夜な夜なここから抜け出して琵琶湖で暴れるために、目に釘を打ち付けて封じたという。すごいと思ってしまう。この彫刻を良く見るために本堂に上がった。
本堂にはいろんな仏像が展示されていた。ただし、ここにある仏像は新しいものが多くて、国宝・重要文化財などといった物はない。三井寺は円城寺とも言って、何度も戦火にあっていて、古い仏像は残っていないのだ。残念である。
本堂を出ると境内の脇に鐘楼があって、これが近江八景に謡われる「三井の晩鐘」である。鐘の音が聞きたかった。
さて、ここから観音堂を目指す。
静かな林の中の参道を行くと、鮮やかな赤いお堂が見えてきた。これは重要文化財の毘沙門堂である。なんかこの三井寺境内の建物は重要文化財が多くて、鑑賞するのに疲れてしまう。
石段を登って行くと展望が開けて、そこにあるのが観音堂である。この観音堂は西国三十三霊場巡りの14番札所になっているのだ。
ここは展望台のようになっていて、琵琶湖と大津市街を見下ろすことができる。すばらしい景色である。
ここで軽く食事をした。
さて、三井寺から下って琵琶湖疎水の取り入れ口に行ってみることにした。
疎水沿いは安全のためにすごく厳重な柵で囲まれていて、疎水にかかる橋までいって、ようやく写真を撮ることができた。
この橋から琵琶湖の方を眺めると、いくつかの水門が見える。こうして取り入れられた水がトンネルのなかに吸い込まれて行く。ここから取り入れた琵琶湖の水は京都南禅寺のところに出てくるのだ。



 音羽山
古い祠がある神社


自然歩道は陸橋で国道を渡る


途中で休憩


音羽山山頂


送電線


さて、ここからは山に向かって登っていかなければならない。
この道がけっこうわかりにくかった。
道は「長等公園」から遊歩道に入る。
遊歩道を登っていくと古い祠のある神社の前に出た。ここがこのあたりのピークになっている。少し下ると自然歩道に合流できた。
尾根道を歩いて行く。次第に車の音がうるさくなってきて、急な道を下る。
下ったところに、国道1号線をまたぐ自然歩道の陸橋がある。
その手前が逢坂の関である。今は跡形もない。
ところがここに指導標が立っていて、右に100m行ったところに「蝉丸神社」があるという。
もしかしたら逢坂の関の跡かもしれないと思って行ってみることにした。けっこう疲れているのだが、史跡があるとつい立ち寄ってしまう。
ところがこの神社には何もなくて、疲れただけだった。
国道をまたぐ陸橋を渡る。
ここからは音羽山まで急な登りの連続である。音羽山の手前に逢坂山があるのだが気づかぬままに通り過ぎてしまった。
この道は登山者が多くて、下って来る人とすれ違う。
4人ほどのパーティが休憩していて、挨拶したらこれからどこまで行くのかと訊かれた。
石山寺まで行くつもりだと言ったら、本気で止められた。
ここから音羽山までは1時間くらいの登りだが、この音羽山から石山寺までは8kmもあるのだそうだ。
今、3時である。
これから行ったらまちがいなく暗くなってしまうから止めた方がいいというのだ。
心配してもらってありがたかった。
ただ、私なりの腹積もりをいうと、まず音羽山までは登りだから1時間かかるとして、山頂からは当然下りになるはずである。下りなら1km15分、8kmなら2時間で下れる。私は時間がないとき、走ったりするから1時間半で十分かもしれない。それに、4kmも下ったら多分林道に出れると思うから、そこまで行けたら暗くなっても困ることはない。懐中電灯でも歩けるし、もしビバークになったとしても、今の時期なら十分暖かいから凍え死ぬことはないだろう。
けっこう安直な計算なのだが…。ただし、彼らが言うように3時過ぎてから山頂を目指すというのは山の常識からいったらとんでもない話しで、反省する必要はあると思うのだ。もっと早く家を出るべきだった。
さて、音羽山に着いたのは予定通り4時。登山道から少しだけ横に入ったところが山頂で、展望が開ける。琵琶湖方面がきれいだ。但し、山頂には大きな送電線の塔が立っていて、これがすこぶる邪魔である。
三角点の前で記念写真を撮って、急いで下山を始めた。



 幻住庵から瀬田川へ
トイレのある休憩所


流れに沿って行くと貯水池に着く


神社に着いた、ここが幻住庵入口


幻住庵

瀬田川に着いた


しばらく南に向かうが、稜線の道である。道が東に向かうころから急な下りになった。どんどん下って行く。40分ほどで林道に出ると、貯水池があった。
ここからすぐに集落に出て、民家の中を歩いて行くとバス停がある。バス停から少し行くと左手に神社に続く急な石段があって、その前に案内板がたっていた。ここが芭蕉の幻住庵なのだった。

時間は5時になっている。見学は4時半までなので、見学はできな。それでも外からだけでものぞいてみたくて、石段を登った。
幻住庵の木戸のような門は開いていたが、中の建物は閉まっていた。
これで十分である。
隣にある神社もお参りして、石山寺をめざす。
ここで道に迷った。町の中の道になると、指導標がほとんどなくなって、石山寺がどこなのかまったくわからなくなった。
しかたがないので、磁石を取り出して地図で確認しながら進むことにした。
なんとか東海自然歩道と合流することができたが、とんでもなくわかりにくい道で、本当に民家の間の細い路地を行くのだ。
下って行くと、電車の線路に出た。
これが京阪電車で、右が石山寺の駅であった。
今日は石山寺の拝観はできないので、そのままJR石山駅をめざすことにした。
瀬田川に沿って続く遊歩道を行くことにした。瀬田川では水挺の練習をしている。川の流れに釣竿をたれている人も多くて、なんかのどかである。
新幹線の鉄橋を過ぎると、次の橋が瀬田の唐橋である。歴史上に何度も登場する有名な橋なのだが、今は鉄筋コンクリート造りなのだ。
近江八景では「瀬田の残照」という。ちょうど時間も6時を過ぎて残照の頃である。
橋の上をたくさんの車が走って行て、昔をしのぶかけらもないのだが、それでも瀬田の唐橋である。ちょっと感慨にふけってしまった。
川沿いに歩いて、突き当たったところから左に入る。もうそこは街の中で、信号の横断歩道をいくつか渡ってJRの石山に着いた。
今日の歩いた距離はそんなに長くはないはずなのに、すごく遅くなってしまった。



NEXT 石山寺から宇治へ(サブコース)

NEXT 石山寺から信楽へ(本コース)


BACK 東海自然歩道 滋賀の道






総合TOP My日本の山  My日本の道  日本の旅  自己紹介














inserted by FC2 system