次のコースの道がわからなくて、境内を探し回った。境内の突き当たりに鉄の門が閉まっていて、その横に細い道があるのを見つけた。その道に入ると隠れるようにして指導標が立っていた。
ここからは二万五千分の一の地図をみながら行ったのだが、どうにも道がわかりにくい。
滋賀県の「歴史の道コース」の指導標に従って歩いて行ったら、皇子ヶ丘公園に着いた。
この公園の中でも道を失ってしまったが、地図と磁石でなんとか歩いて行く。東海自然歩道の指導標が見あたらないのだ。
歩いて行くと法明院の案内があって、ここにフェノロッサの墓があるらしい。その細い道に入ると、古ぼけた自然歩道の指導標があった。東海自然歩道もできてから30年もたっているのだから、昔の標識は本当に朽ちかけているのだ。
法明院は山の森に埋もれているようなお寺で、暗い樹林の中の石段を登って本堂の前に出る。その左に木戸がある。その中に入るときれいな庭園になっていて、さらに奥に進むと山に登って行く道がある。その道を少し登ると左にフェノロサの墓があった。
フェノロサといったら、明治の前期に日本にやってきたアメリカの東洋美術研究者である。この当時、西洋文化を重視するあまり、日本の伝統的な文化芸術が破棄されようとしていたのだ。そんな中で日本文化のすばらしさを諸外国に紹介してくれた人のがフェノロサである。
その頃の日本はひどい状態で、今では有名な浮世絵なんかがどんどん外国に流出していた時代なのだ。たとえば、奈良興福寺の五重塔なんかも二束三文で売りに出されたりしたというのだからすごい。
フェノロサで私の記憶している話は、法隆寺夢殿の救世観音のことである。救世観音は本来秘仏で人の目にさらされる事はなかったのだ。ところがこのフェノロッサが僧侶たちを脅しあげて、この秘仏の扉を開けさせたのだ。こいつってとんでもない奴だと思ってしまうのだが…。でも、そのおかげで今は年に一度の開帳日があって、我々もこの救世観音を拝観できるというわけである。
それでフェノロッサの墓なのだが、五輪の塔であった。外人墓地のような墓を想像していたのだがこれは意外だった。
法明院を出て、さらに山道を行くと新羅三郎の墓がある。これは土を盛り上げた塚であった。新羅三郎といったら武田家の祖先ではなかったっけ。
新羅三郎は源義家の三男で源義光のことである。
武田家には「御旗楯なし」という家宝があって、武田家の軍議の決定はこの御旗楯なしに誓うのだ。そして、この御旗楯なしは新羅三郎から伝わるものだというのだ。
ここから少し行くと舗装の道に出て、すぐに大津市歴史博物館の前に出た。
人がほとんど見えないので休館日かと思ったら、開館していた。私は歴史博物館が大好きで、地方に行ってこ博物館を見つけると必ず入ってしまう。
この博物館は最近できたもののようで、中がすごくきれいで、展示の仕方も新しい工夫がされている。
館を見てまわる。さすがに琵琶湖の展示が多い。
近江八景の掲示もあって、堅田の落雁、比良の雪、三井の晩鐘、瀬田の残照等をいうのだが、今日はこのうちの三井、石山、瀬田の3つを巡ることになる。
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