BACK 猿投神社から西広瀬へ
2009年4月7日
これから渡る橋の名前は広梅橋というのだが、橋の手前には自然歩道の大きなトイレがあった。この前に大きな石の角柱があって、広梅橋という表示がある。これは昔の橋なのだ。
新しい広梅橋を渡って行く。広梅橋という名前は、地名の広瀬の広と当地の造り酒屋の苗字の一字をとってつけられたのだ。たぶんこの人が橋を架けるにあたって相当な寄進をしたのだろう。
橋から見下ろす矢作川は鮮やかなコバルトブルーで、きれいな流れであった。この川ではかって、アユナがあったらしい。竹で編んだヤナの上に流れてきた、いわゆるおち鮎をつかまえる漁法なのだ。今はアユナを見ることはできなくて、鮎の料理屋だけがあった。
橋を渡ると線路を渡る。右に駅舎が見えた。この線路は名鉄三河線で駅舎は三河広瀬駅なのだが、2004年4月に廃線になっているのだ。
線路を渡った左に小さな公園があって、そこにりっぱな石碑がたっている。「梅村源次郎翁」と刻まれているので、広梅橋の梅の字はこの人のもののようだ。この公園には広瀬城址の説明板もあった。1344年に児島高徳が築城したのだが、1560年に徳川家康に攻められて落城してしまったのだという。
公園から長い石段を登って行く。丘の上は広場で、そこに広瀬神社があった。ここにかっては城があったらしい。
樹林の坂を下って、石の鳥居をくぐって畑地に降り着く。桜がすばらしくきれいで、石仏がたたずんでいた。このすぐ先で車道に出るのだが、ここには「広瀬城址」という新しい石柱がたっていた。
東広瀬町の住宅地を歩いて、指導標に従って畑の中に入る。こんな道で本当にいいのかと心配になってしまうのだが、畑から鬱蒼とした樹林に入って少し行くと、細いアスファルト道に出た。ここに立つ指導標には「勘八峡まで2.3km 45分」と書かれていた。道は間違っていない。
5分ほど行くと力石峠で、自然歩道の案内板があった。
集落をいくつも抜けて行くのどかな道が続く。畑には紅や白の花が満開であった。
自動車道を陸橋で渡るところには「猿投グリーンロード」という標識がたっていた。
満開の桜を眺めながら15分ほど行くと広い車道に出て、そこに「勘八峡」の説明板があった。勘八峡というのは矢作川最下流の発電ダムがつくる湖のことなのだ。
自然歩道は広い車道に出て、これを左に行って鎮平橋を渡る。この橋は矢作川に流れ込む力石川を渡るためのもので、ここからダム湖をみることができる。これが勘八峡の眺めなのだが、期待したほどのものではなかった。
力石川に沿って上流に向かう。川の土手には満開の桜ですごくきれいなのだ。すぐに国道153号線にぶつかるが、高架が複雑に交差していて、これを過ぎたすぐ先で左の細い道に入る。
道は果樹園のすぐ横を行くのだが、その花が満開ですばらしくきれいである。花を眺めながら10分行くと「市営勘八牧場」という標識があった。でも、牧場らしきものはなくてアスファルトの道に出てしまった。
舗装道を歩いて行くと道ばたにベンチが置かれていて、ここで地図を確認するとこのあたりに勘八山がある。行ってみたが、林の中で踏み跡もなくて引き返すしかなかった。
緩やかな起伏の道を行くと広大な畑地が広がって、すぐに市営勘八牧場の説明板があった。「この牧場は昭和44年に造成され30haの草地と40haの林間に肉牛の繁殖と乳牛の育成を目的として60頭の牝牛が放牧されている」と書かれているのだが、広がっているのは畑で、牛なんかどこにも見えない。牧場は止めて畑作になってしまったのかもしれない。
それにしてもすばらしい桜並木が続く。満開の桜の木の下にベンチがあったので、花見を兼ねて休憩した。
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