BACK 犬山から継鹿尾山へ
2009年4月4日
恵那コース分岐から自然林の中林道を歩いて行く。10分ほど緩やかに下って行くと、大きな池の畔に着いた。これが大洞池で、濃い緑の水面がすごくきれいである。釣り人が糸を垂れていた。
池の前で左折して、舗装になった道を歩いて行き、墓地を過ぎると下に寺洞の集落が見えてきた。大日如来座像があるという陽徳寺の前を過ぎると、T字路に着く。ここには小高い丘があって、鳥居と丘に上って行く石段が見える。これが熊野神社である。立ち寄るべきだったのだが、シンドそうなので石段を登るのは止めにした。お祭りでもあるのか神社の大きな幟がたてられていた。
車道を歩いて行って、善師野駅に向かう道から左折する。指導標に従って細い道に入ると、名鉄広見線にぶつかる。線路に沿って歩いて行ったが、指導標もないし地図と照らしてもどうも違うような気がする。地図を信頼して、道はないのだが強引に線路を渡って、線路の南側の道に入った。集落の中の道を歩いて行くと、自然歩道の指導標を見つけた。カンは間違っていなかった。
少し行くと、畑地の間に南に向かう指導標があった。二万五千分の一の地図には書かれていない道である。本当にこの道でいいのかと思いながら畑の道を行くと、ため池の横に着いた。これが指導標に書かれていた平谷池であった。ここから自然林の中をさらに南に歩いて行くと、車がたくさん行き交う国道が見えてきた。国道42号線(名濃バイパス)である。このバイパスをトンネルでくぐって再び山道に入る。
丸太の急な階段を上るとベンチが置かれた休憩所があった。ここから少し行くと車道にかかる陸橋がある。下の道は尾張パークウェイなのだ。
赤松林の山道を歩いているのだが、地図上の自分の位置がわからなくなった。送電線鉄塔の下にベンチの置かれた休憩所があった。そしてこのすぐ先で車道に降りる。ここには今井まで1.3km・25分という指導標がたっていた。
ここからは車道歩きであった。指導標に従って右折・左折して歩いて行くと池の前に出た。そして、このすぐ先にも池がある。池の看板があって、そこに丸山池と書いてあった。これでようやく地図上の自分の位置がわかった。
ここから細い道を歩いて車道に出ると、そこには今井丸山のバス停があった。そこにたつ指導標には「開拓パイロットまで2.3km・45分」と書いてあった。
集落の中の道を歩いて行く。地図ではこのあたりで東に向かう道に入るはずだが…と思ったが指導標がない。違うのかと思ってよく見たら、頭上に鉄プレートの緑色の指導標があった。今まで見た自然歩道の指導標とはまったく違うので見逃すところであった。
田舎道を歩いて行くと、満開の桜の下に自然歩道の案内板があって、そのすぐ先で車道は通行止めになっていた。
自然林の中、地道の林道を歩いて行く。道には砂利が敷かれていて足が痛くなった。ちょうど桜の木の下にベンチが置かれていたので、ここで少し休憩。
開拓パイロットに向かって歩いて行くと、雨がポツポツと降り出した。天気予報は間違っていなかった。でも、ひどく濡れるほどでもないので、そのまま歩いて行った。
林がとぎれると草地が広がっていて、そこに開拓パイロットの標識があった。昔は実験農場があったのだろうが、今は荒れ果てた感じで、荒涼とした草原が広がっているだけである。
開拓ファームの標識から少し行くと自然歩道の古いトイレがあって、さらに照葉樹林を10分ほど行くと舗装道を横切る。ここには入鹿池まで3.7kmの指導標がたっていた。
照葉樹の中を緩やかに登って行くと、道の真ん中に四等三角点があった。地図で標高212m地点であることが確認できた。
自然林の気持ちのいい道が続く。道には「今井みどりの少年団」がたてた自然保護の標識がいくつもたっていた。原色で塗られていてけっこう目立つのだ。
丸太の階段を下って、地道の林道に降り立つ。
あとはこの林道をひたすら歩いて行くのだが、東京大学の「斜面ライシメーター」という標識があった。なんだろうかと思ってしまう。さらに15分ほど行くと、林の中に小さな祠があって、百度石までおかれていた。
すぐに自然歩道の古いトイレがあって、このあたりが「鞍馬教会」であることがわかる。この付近にはコンクリートの岩窟がいくつかあって、中に石仏が収まっている。林道を5分ほど下ると車止めの鉄柵があって、その右に広い石段が続いている。これが鞍馬教会に向かう参道のようである。鞍馬教会っていったい何だろうと思うのだが、京都の鞍馬山とはまったく関係ない新興宗教のようである。
ここから10分ほど林道を歩くと、ロープを張った車止めがあって、その先は舗装された車道であった。車道を少し行くと赤い鉄橋が見えてきて、右には大きな池が広がっている。これが入鹿池で、橋の袂には入鹿池の説明板があった。入鹿池は最近造られたダム湖だと思っていたら、そうではなかった。寛永10年(1633)に江崎善左衛門などの入鹿六人衆の努力によって造られたのだ。入鹿池の池畔には明治村があるのだが、この橋のほとんど対岸にあるので遠い。
→参考 日本明治村
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