東海自然歩道 岐阜の道


琵琶峠休憩所→八瀬沢一里塚→琵琶峠→中山道二つ岩→大湫宿→大湫観音堂→神明社の大杉→大湫宿本陣跡→宗昌寺→尻冷しの地蔵尊→阿波屋の観音堂→権現山一里塚→順礼水→大久後の観音堂→三城峠

今日も引き続き中山道を行くのだ。大湫宿は昔の宿場の面影がよく残っていて、神明社の大杉はすばらしかった。本陣跡の小学校には皇女和宮が泊まったときに詠んだ歌の碑がたっていた。大湫宿を過ぎると十三峠の難所が待ちかまえている。名前のとおり、十三の峠を越えなければいけないのだ。でも、一里塚や石畳道、そして道ばたの石仏など、歩いて楽しい道である。


 琵琶峠から大湫宿へ
泊まった東屋


八瀬沢一里塚


琵琶峠


石畳道を下る

BACK 細久手宿から琵琶峠へ

2009329

朝、行動を始めたのが6時過ぎ、昨夜はけっこう寒くてよく眠れなかったのだ。朝の日課は、まずお湯を沸かしてポッドに詰めて、残ったお湯でコーヒーを飲むこと。朝食は食べないのだ。
テントを畳んで、東屋から下ったのは750分であった。ちょっと遅すぎる。
トイレの前から石畳道を上って行く。この琵琶峠の石畳は全長730mで、日本一長いと言われるのだが、これが発見されたのは昭和45年のことである。ほとんどが埋もれていたのを地元の人によって復元されたのだ。
すぐに一里塚があった。八瀬沢一里塚で、これも昔のまま完全に残った一里塚なのだ。この先も石畳の登りが続き、300mほどで琵琶峠に着く。
峠から右に少し上ると石碑がたくさん立つ小さな広場がある。琵琶峠を紹介した碑文なのだが、

琵琶嶺
細久手より一里余りにあり 道至って険しく 岩石多く
登り下り十町ばかりなり
坂の上より 丑寅の方に木曽の御岳見ゆる
北には加賀の白山 飛騨山の間より見ゆる
白山大山ゆえに 麓まで雪あり 日本三番目の高山なり
西に伊吹山見ゆる


御嶽山や白山が見えるのかと思ってあたりを見回したが、鬱蒼とした樹林の中でまったく展望はなかった。
峠に戻る。切り通しになった峠には歌碑や石仏がたっていた。
石畳道を下る。鬱蒼とした林の中を下って、ようやく林から抜け出ると、そこには琵琶峠東上り口の石碑がたっていていた。石碑の両脇には仏が彫られた石柱がたっていた。
ここで車道に合流して300mほど行くと「中山道二つ岩」という石碑がある。確かに大きな岩聳え立っていて、この50mほど先にも巨岩があった。太田南畝の紀行では烏帽子岩と母衣岩と記されているのだそうだ。
このすぐ先には駐車場のような広場があって、大湫宿大洞小坂という石碑があった。もう大湫宿に着いたみたいである。



 大湫宿


大湫宿に入る


観音堂への石段を登る


神明社


宿場の家並みを行く


十三峠の上り口


少し行くと道端に石仏がたっていた。二つの大岩が並んでいて、一つには馬頭観音、もう一つは小さな石碑が載っている。白い標柱には小坂の馬頭様とかかれていた。これに並ぶようにして紅葉洞の石橋があった。かっては石橋として架けられていたのだろうが、今は道端に置かれた石板である。

すぐに大湫(おおくて)宿に入って行く。宿場の入口には高札場があった。もちろん復元されたものなのだが、そのすぐ先に山に向かって斜めに登って行く石段がある。観音堂への道である。
大湫観音堂は天井絵が立派らしいのだが、扉は閉まっていて見ることはできなかった。狭い境内には芭蕉の句碑もある。

花さかり 山は 日ごろの あさぼらけ

芭蕉が吉野で詠んだ句だというのだが、すごく平凡な作だと思ってしまう。私が芭蕉の句碑に興味をもってしまうのは、おくの細道を歩いているからなのだ。深川から白石まで歩いたのだが、その続きはまだになっている。
江戸時代は各地で俳句のグループができて、この句碑もこの地の俳諧仲間が寛政年間にたてたものなのだ。

御堂の横から神明社に下る。行く手には高く聳える杉の巨木が見える。これが神明社の大杉で、樹齢1300年、60mもの高さがあるのだ。杉の根元にたって見上げると、すごい迫力である。大杉の前には泉が小さな池をつくっていた。
神明神社へは左から境内に入ってきたのだが、正面の鳥居をくぐって境内から出ると宿場のメイン通りである。宿場町のたたずまいがそのまま残っていた。まだ8時半なので、人通りもなくてすごく静かで、江戸時代にタイムスリップしたようである。
通りから少し奥まったところ脇本陣がにあるのだが、ちゃんと住人がいるので中に入ることはできない。宿場の中を歩いて行くと白山神社の入口があって、その横に庭園が残っている。問屋場跡という標識があった。
本陣は今はなくなってしまって、小学校の校庭になっている。学校の入口には皇女和宮の歌碑がたっていた。和宮は中山道を下ったとき、この大湫宿本陣に泊まったのである。

遠ざかる 都と知れば 旅衣
一夜の宿も 立ちうかりけり

思いきや 雲井の袂 ぬぎかえて
うき旅衣 袖しほるとは


宿場の中を少し行くと、国の有形文化財に指定されている問屋丸森・森川家と旅籠三浦家の二軒が並んで立っている。これが昔の雰囲気を残してしてすごくいい。カメラマンが三脚をたてて写真を撮っていた。
すぐにT字路にぶつかって右折する。少し急な坂を登ると、大湫宿と刻まれた石碑がたっていた。この右は広い駐車場で東屋がたち、案内板もあった。ここから振り返ると大湫宿を一望することができた。
駐車場の奥に宗昌寺があるためか、今登ってきた坂は寺坂というのだ。宗昌寺には石造物群があるというので行ってみたが、石仏が9体並んでいるだけであった。



 十三峠へ
茶畑の横を行く


一旦、車道に出てしまう


車道から地道に入る


尻冷やし地蔵


宗昌寺から街道に戻ると、自然歩道の説明板があって、そこには十三峠とかいてある。太田南畝の文学碑もたっていた。大湫宿から次の大井宿までは上り下りの多いすごくきつい道が続くのだ。名前の通り、十三の峠を越えなければいけないらしい。中山道の難所の一つなのである。

坂道を登って行くと指導標があって、これに従って舗装道から左に入る。土の道になってほっとした。少し先に「十三峠童子ヶ根」という碑がたっていた。ここも十三峠の一つらしい。でもあまりきつい登りではなかったから、この調子ならそんなに苦労しなくてもよさそうである。
茶畑が広がっていて、この横を歩いて行くと「山之神坂」「しゃれこ坂」などと書かれた碑がたっている。太田南畝の文学碑には

曲りまがりて登り下り猶三四町も丁る坂の名を問えばしゃれこ坂という。右の方に南無観世菩薩という石を建つ。向こうに遠く見ゆる山はかの横長岳なり。
とかかれている。横長岳というのは恵那山のことである。
南畝の記した通り、南無観世菩薩と刻まれた石柱があった。ここから緩やかに下って行くと車道に出てしまった。車道歩きになるのかと思ったらこれを横断して再び静かな山道に入る。未舗装の林道を歩いて行くと右に小さな広場があって、そこに水場があった。石組みされているのだが、少し水の流れがあるだけで、とても飲めるようなものではない。この後ろには石の地蔵様がたっている。これが「尻冷やしの地蔵尊」で、ちょうど清水で尻を冷やしているように見えることからこの名がつけられたというのだが、まったくそうは見えない。難所十三峠での水場はすごく貴重で、その感謝の気持ちからこの地蔵尊はたてられたのだという。
ここから200mほど上がると峠に着いて、そこには石積みの御堂が建っていた。この峠には阿波屋という茶屋があったことから「阿波屋の観音さん」と呼ばれ、中には三十三体の馬頭観音が納められているのだ。十三峠は険しい道の連続であったため、倒れる牛馬も多くて、これを弔うために宿内の伝馬役や定飛脚組合がこの石仏をたてたという。天保11年(1840)のことである。私が持っている30年前のガイドブックには朽ちかけた屋根の下の石仏群が掲載されているのだが、今は立派なお堂になっていて、正面は頑丈な格子で塞がれているのだ。中の馬頭観音の写真を撮るのに苦労してしまった。



 三城峠へ
曽根松の坂を下る


権現山一里塚


池を右に見て下って行く


観音坂の東屋


三城峠の上り口


この先は石畳が残る「曽根松の坂」を下って行く。赤松林の中、広い道を下って少し登り返したところには「ぴあいと坂」という標柱がたっていた。どういう意味なんだと思ってしまう名前である。

この先で簡易舗装の林道を横切って、少し行くと「順礼水」という碑がたっていた。道端に小さな泉があった。
坂道を下って行くと、左の林の奥はゴルフ場だということに気がついた。中山道という歴史の道をたどっているのに、突然現在を思い興させてしまう。興ざめ。
このすぐ先に権現山一里塚があった。ここからは、江戸へ90里・京へ44里なのだそうだ。
樫ノ木坂という石畳の道を下ると、林から抜け出して田んぼの中の道に出る。右にため池をみて、緩やかに下って行くこの道は「吾郎坂」というらしい。集落の中に入ると、そこには「炭焼き立場」の説明板がたっていた。ここは眺望がいいので、休憩地として旅人に好かれたというのだが、展望はよくなかった。

ここから鞍骨坂、権現坂を下って行く。道は舗装された林道で、かなり急な坂が続く。樹林から抜け出ると大久後の集落が見え、その手前には御堂があった。「大久後の観音堂と弘法様」という標柱がたっていたが、御堂の中にあるのは弘法大師の石仏だけであった。
集落を抜けたところには駐車場があって、そこに東海自然歩道の案内図がたっていた。ここで舗装道から離れて、左の山道に入る。
すぐに「灰くべ餅の出茶屋跡」という標柱があって、その200mほど先には「観音坂の霊場順拝碑」がたっていた。どんな霊場巡りがあったのかよくわからない。
ここから少し行くと東屋がたっていて、中山道「観音坂と馬頭様」の説明板があった。大きな岩の上に石仏がたっていて、お地蔵様のようだが、よく見ると馬頭観音なのだ。風化しているが、頭上にあるのは馬の顔なのだ。
ここからは下りになる。未舗装だがけっこう広い道がうねりながら下っている。途中には大久後観音坂という石標があった。
林から抜け出すと段々畑が広がっていて、再び樹林の中に入って少し登ったところには大久後の向茶屋跡という標柱があった。
茶屋跡から緩やかに下って行く。
車道を横切って再び登りになるところに中山道と書いた石碑がたっていた。緩やかに登って行き、峠に着くと、そこには三城峠という標柱がたっていた。峠からは石畳の道で、展望が開けると残雪の恵那山を望むことができた。


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