少し行くと道端に石仏がたっていた。二つの大岩が並んでいて、一つには馬頭観音、もう一つは小さな石碑が載っている。白い標柱には小坂の馬頭様とかかれていた。これに並ぶようにして紅葉洞の石橋があった。かっては石橋として架けられていたのだろうが、今は道端に置かれた石板である。
すぐに大湫(おおくて)宿に入って行く。宿場の入口には高札場があった。もちろん復元されたものなのだが、そのすぐ先に山に向かって斜めに登って行く石段がある。観音堂への道である。
大湫観音堂は天井絵が立派らしいのだが、扉は閉まっていて見ることはできなかった。狭い境内には芭蕉の句碑もある。
花さかり 山は 日ごろの あさぼらけ
芭蕉が吉野で詠んだ句だというのだが、すごく平凡な作だと思ってしまう。私が芭蕉の句碑に興味をもってしまうのは、おくの細道を歩いているからなのだ。深川から白石まで歩いたのだが、その続きはまだになっている。
江戸時代は各地で俳句のグループができて、この句碑もこの地の俳諧仲間が寛政年間にたてたものなのだ。
御堂の横から神明社に下る。行く手には高く聳える杉の巨木が見える。これが神明社の大杉で、樹齢1300年、60mもの高さがあるのだ。杉の根元にたって見上げると、すごい迫力である。大杉の前には泉が小さな池をつくっていた。
神明神社へは左から境内に入ってきたのだが、正面の鳥居をくぐって境内から出ると宿場のメイン通りである。宿場町のたたずまいがそのまま残っていた。まだ8時半なので、人通りもなくてすごく静かで、江戸時代にタイムスリップしたようである。
通りから少し奥まったところ脇本陣がにあるのだが、ちゃんと住人がいるので中に入ることはできない。宿場の中を歩いて行くと白山神社の入口があって、その横に庭園が残っている。問屋場跡という標識があった。
本陣は今はなくなってしまって、小学校の校庭になっている。学校の入口には皇女和宮の歌碑がたっていた。和宮は中山道を下ったとき、この大湫宿本陣に泊まったのである。
遠ざかる 都と知れば 旅衣
一夜の宿も 立ちうかりけり
思いきや 雲井の袂 ぬぎかえて
うき旅衣 袖しほるとは
宿場の中を少し行くと、国の有形文化財に指定されている問屋丸森・森川家と旅籠三浦家の二軒が並んで立っている。これが昔の雰囲気を残してしてすごくいい。カメラマンが三脚をたてて写真を撮っていた。
すぐにT字路にぶつかって右折する。少し急な坂を登ると、大湫宿と刻まれた石碑がたっていた。この右は広い駐車場で東屋がたち、案内板もあった。ここから振り返ると大湫宿を一望することができた。
駐車場の奥に宗昌寺があるためか、今登ってきた坂は寺坂というのだ。宗昌寺には石造物群があるというので行ってみたが、石仏が9体並んでいるだけであった。
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